23.生きて帰れると思うなよ
聞こえた。
確かに、聞こえた。
助けを求める声が。
闇夜のなか、遠くから、かすかに聞こえた。
「先輩っ」
「ああ」
俺はクロエとうなずき合い、奔る足をさらに速めた。
勇者役の背高の暗殺者が、俺たちのあとにつづく。
屋根のうえを蹴り、月を背に跳ぶ。音もなく着地し、重力を無視して縦横無尽に、夜の街を駆け抜ける。つめたい空気は風となり、俺たちの耳にごうごうと音を響かせ、つぎつぎと後ろへと流れてゆく。
高揚感を覚えながら、俺は声の方角を目指す。
たどり着いたのは、港だ。
荷揚げした荷物を収める倉庫がいくつも建ち並ぶなかで、ひとの気配をさぐる。すぐに、何人かぶんの足音を聞きつけて、俺はそちらへと跳んだ。
ある倉庫のまえに、男たちが集まっていた。
俺たち三人は物陰から様子を伺う。
おそらく、犯罪組織の人間だろう。いずれも、油断なく辺りを見まわしながら、緊張を途絶えさせていない。倉庫の入り口に提げたちいさなランプを除いて照明がない。人目をはばかるなにかを行なっているという、それが証拠だった。
「先輩、あれ」
クロエが指をさす。
その先にいたのは、口をふさがれて倉庫へと引きずられる少年のすがただ。ちいさな体で暴れ回るが、屈強な男たちはびくともせず、少年を倉庫へと連れ込んだ。ひと目見えた少年は、めずらしく清潔な身なりをしていた。
「……誘拐か」
「でしょうね。高級そうな服装から察するに、おそらくは貴族の子弟」
「帝都のなかではなく、港に監禁するってことは――」
「身代金をせしめたら、外国へ売っ払う腹っすね」
俺は男たちの数を数える。
倉庫の外で各所に目を光らせる者が合計七名。倉庫のなかに何人いるかは不明。
「……三人でやれるか?」
「問題ないっす。相手はしょせん、素人です」
クロエが笑う。
俺は笑みを返して、倉庫へと奔っていく。
足音がないから、ぎりぎりになるまで男たちは俺たちの存在に気づけない。闇夜のなかに光る瞳を見つけたときには、もう遅い。
俺はひとりの喉を切る。
噴出する血を見ることもなく、二人目に全体重を乗せた蹴りを見舞い、首を一瞬でへし折る。ごきり、という音に三人目が振り向く。
その顔の中心めがけて、俺はナイフを投擲した。
額にナイフの柄を生やした男が、ゆっくりとくずれ落ちる。
ここまででおよそ八秒。
辺りを見ると、クロエと”勇者様”も、それぞれ二人ずつを始末し終えたところだった。おおきな音も、敵の断末魔も上がってはいない。俺は三人目からナイフを抜き取ると、その刃に付いた血と脂肪をぬぐい去った。
ふたりとうなずきを交わし、倉庫へと突入する。
正面突破だ。
走り込んだ倉庫は、しかし、しんとしずまり返っている。
誰何の声もない。
応戦もない。
なにより、ひとの気配があまりに少ない。
「じゃおうさま……?」
少年の声がする。
暗がりから、少年がよろよろと歩み出てくる。
「いや、私は”勇者”だよ。怖かっただろう、もう大丈夫だ」
”勇者様”が少年に歩み寄る。
恐怖で足に力が入らないのだろう、少年はふらふらとした歩調で”勇者様”に近づき、その腕に抱き留められた。
そのとき。
おそろしく巨大な殺気が、少年の背後の闇からふくれ上がった。
「避けろ、”砂嵐”ッ!」
俺は”勇者様”のほんものの二つ名をとっさに呼んでいた。
”勇者様”――”砂嵐”の覆面をした顔面が、五つの指に掴まれる。
「ぐぉっ……!」
みしり、と頭蓋骨がきしむ音。
体重が九〇キロ近い”砂嵐”の体が、持ち上げられる。指の持ち主が、ずい、とまえに踏み出してきた。少年をしっかりと抱きしめた”砂嵐”が、脇へと放り投げられる。まるで、棒きれかなにかを投げるように、いともたやすく。
そして――
「こいつは、蛇王ではないな」
男が姿を現わす。
金髪碧眼。
長身で、筋肉質だが、脂肪がいっさいないせいで、細くさえ見える肉体。
白銀にかがやく甲冑。
黄金のかがやきを放つ両手剣。
そして――その、鷲のようなするどい眼光。
「”勇者”アラン……!」
正真正銘の本物が、俺たちのまえに立っていた。
「おまえたちふたりも、蛇王には見えん。背丈から察するに、子供と小娘だな? 外れを引いたか」
「……罠、っすか」
「聞きようが悪いではないか、娘。俺がそのような姑息な真似をすると思ったか? 暗殺者でもあるまいに」
吐き捨てるように、勇者は言う。
おそろしく巨大な気配だ。
戦場で正対したら、立ってはいられないだろう。俺は恐怖に震えようとする両足を、意志の力で半身に構える。腰から、もう一本のナイフを抜き去り、両の手に構えた。
「暗殺者が、お嫌いか?」
「あたりまえだ。奴らのように卑怯な手を使う輩を、俺は強者とは認めん。正面から正対し、正々堂々と剣を交わしてこそ、真の強者なのだ」
さて、とアランが言う。
「おまえたちは何者だ? 俺はてっきり、蛇王みずからが俺の名を騙っているものと思ったがな。そうでないのなら……おまえたちが、『教団』か?」
「だとしたら?」
「聞きたいことがある」
勇者アランが懐に手を入れる。
瞬時に俺とクロエが警戒を強めるが、取り出されたのは、単なる羊皮紙の切れ端であった。アランがそれを広げて、こちらに向ける。
『報』の字が書かれた、俺たちのマークがそこに書かれていた。
「この暗がりでも、見えるのだろう? これを知っているな」
「それがどうした」
「この文字を書いた人間は、誰だ」
文字。
いま、文字といったか? 模様でも、紋章でもなく?
「俺に隠しごとは不要だぞ、子供。これが文字であることは俺も知っている。俺がよくよく馴染んだ、故国のことばだからだ。日本の、ことばだからだ」
「……!」
俺はことばを失っていた。
いま、この勇者はなんと言ったのか。
日本といったか?
日本を、故国と?
では。
だとするなら、この男は――。
「まあ、漢字一文字であるからには、中国語のそれかも知れんがな。いずれにせよ、こんな国名を言われたところで、おまえたちには分からないだろう?」
「分かる、と言ったら?」
俺のことばに、クロエが慌てて「先輩!」と声を掛けてくる。
しかし、もう遅い。
勇者アランは、目を丸くして俺を見つめていた。
「子供。……おまえか?」
無言で、俺はナイフを構える。
「おまえなんだな?」
勇者アランは笑いを浮かべた。
「なんたる僥倖! 最大目的がこんなにすぐ叶うとは!
俺はきさまを探していたのだ、子供。
現代日本からやってきたのだな? 死をきっかけに? その風貌からして、転移者ではなく転生者だろう? 記憶を保ったまま生まれたか? それともある日を境に記憶を取り戻したか?
……ああ、まあ、どちらでもいいのだ」
勇者アランが、腰の黄金の剣を抜く。
刀身が、さらにつよいかがやきを放った。まるで月光そのものを間近で浴びているような、闇を打ち払うかがやき。
勇者のみが持つことを許される、聖剣のかがやき。
「おまえが日本から来たのなら――」
勇者が、聖剣を正眼に構える。
さきほどまでに数倍する殺気が、俺の全身へとまともに叩き付けられる。
「――おまえは、この手で殺さねばならない」
*
剣戟――というには、あまりにも一方的だった。
勇者の剣筋は、おそろしく鋭く、力強い。一撃一撃が、かするだけで致命傷に至るほどの、威力と切れ味を持っている。
それを、俺は躱していた。
毛ひと筋ほどの距離で、かろうじて。
「どうした、転生者!」
勇者アランが笑う。
俺はことばを返す余裕すらない。呼吸ひとつ許してはもらえない。すさまじい剣撃を、ただ躱し、ただ避け、ただ逃れる。それで精いっぱいだった。反撃など考える余地もない。
「……っ!」
躱しそこねた一撃を、俺はナイフの刀身で受け止め、勢いを殺すために後ろへとみずから跳んだ。
それでも。
ナイフはバターのようにたやすく刀身を叩き切られ、俺は十メートル以上離れた壁へと叩き付けられた。
「……ごっ!」
肺のなかの空気が残らず吐き出された。
連撃のうちの一発を食らっただけで、この威力。
俺は壁からずり落ちて、床へと突っ伏した。何度も咳をくりかえす。肋骨にひびが入っているようだ。吐いた痰には血が混じっている。
追撃は、ない。
「……弱い。弱いな、おまえ」
勇者ががっかりしたように言う。
「子供だからか? いや、俺がその年だったころも、すでにいまぐらいの膂力も速度も身につけていた。――おまえ、さてはチートのひとつも貰っていないのか?」
チート?
なんだ、それは。
「まあ、構わん。俺はべつに好敵手を求めているわけでもないのでな。おまえがこの世界から消え去ってくれれば、俺はそれでいい」
なんのことだか問いただしたかったが……いまは、この局面を乗り切ることが第一義だった。俺は床に膝をついたまま、離れさせていたクロエへと顔を向ける。
「……”猫”」
「先輩っ」
「来なくていい! おまえは行け!」
「でもっ」
「”鉤爪”を探してくるんだ。……俺じゃ、長くは保たない。早く行けッ!」
クロエは一瞬だけ逡巡を浮かべ。
「――うぅっ!」
悔しそうに、地面を蹴った。
「馬鹿が。させるか」
勇者はその場から一歩も動かないまま、クロエに向かってなにかを投げた。
小刀、だった。
「ふぎゃあぁっ!」
投げられた小刀は、まるでレーザービームのようなまっすぐな軌道を残し、クロエのふくらはぎを的確に撃ち抜いた。小刀の刃がふかぶかとクロエのふくらはぎに突き刺さり、倉庫の床へとその足を縫い止めた。
クロエは動きを奪われ、その場へと倒れ込む。
「俺をまえにして、逃れられた敵などおらんのだ。いまだかつてな」
傲岸そのものといった顔つきで、勇者はせせら笑う。
俺は、その目を見ていた。
その目を、にらみつけていた。
「……小僧。なんだ、その目は」
勇者がこちらに向き直る。
クロエは足を抱えて、倒れている。血を流している。
血を。
俺の猫が、血を。
「その目はなんだと聞いているッ!」
「黙れ」
頭のなかが沸騰している。煮えたぎっている。すべての論理的思考が塗りつぶされ、どすぐろい憤怒へととって代わる。あふれる感情が、全身に力をほとばしらせる。
俺の猫が、痛がっている。
俺の猫が、血を流している。
俺の猫が、苦しんでいる。
その原因は、目のまえにいる、このくだらない男だ。
殺す。
殺してやる。
「――生きて帰れると思うなよ、勇者が」