21.いったい何人いるのだ
蛇王が出た。
蛇王が来た。
帝都は震えあがる。怯えまどう。
恐怖するのは悪党どもだ。弱者をむさぼり、虐げてきた悪徳の信奉者どもだ。欲望と利己の化身どもだ。
蛇王が出る。
蛇王が来る。
帝都は希望に満ちる。光が射す。
期待するのは弱者たちだ。強者に踏みつけにされ、尊厳を奪われつづけてきた被害者たちだ。諦観と絶望のしもべたちだ。
蛇王がいる。
蛇王がいた。
ささやき声が帝都に増える。悪を挫き、善を助く、民衆の味方がここにいる。心のなかで助けを求めれば、かならず蛇王がそこにくる。
蛇王のすがたを、民は知らない。
全身を黒衣に包んでいるらしい。
両の肩口から二頭の蛇を生やしているらしい。
首もふたつあるらしい。
おそろしく強いらしい。
噂だけがひとり歩きする。
子供たちは彼をこう呼ぶ――正義の味方と。
救われたものは、みな口をつぐむ。
蛇王に悪党どもの手が伸びぬよう。
蛇王に悪党どもの目が向かぬよう。
みな、口をつぐむ。
心の底で、感謝を、快哉を、叫びながら。
蛇王がいる。
帝都には、蛇王がいる。
犯罪者たちは夜の濃さに、はじめて怯える。狩人だと思っていたじぶんたちが、単なる獲物でしかないことに、怯えはじめる。悪徳が減りはじめる。暴力が、威圧が、罵詈が、減りはじめる。
これまで、夜の帝都は悪徳が支配していた。
いま、夜の帝都は蛇王に支配されている。
――しかし。
勇者とよばれる男が、動きはじめた。
蛇王が正義の味方であるとするなら、
勇者は正義の化身である。
勇者の与するものこそが正義。
勇者の掲げることこそが正義。
十字聖教がそう定義づけた至高の存在が、蛇王討伐へ動きはじめる。
ならば、蛇王は善か悪か。
民は見守っている。
固唾を飲んで、ゆくすえを見守っている。
どちらが正義なのか。
どちらが悪なのか。
勝利という結果だけが、その答えをもたらしてくれるのだと信じて。
*
「……厄介だな、ありゃア」
“蛇”は背中のイベリスに語りかける。
帝都の夜を駆けながら。月光だけが照らす屋根の上を、足音もなく跳びながら。
「なにが?」
「分かんなかったか? さっき、下にいたバケモノみてえな男が例の勇者だよ」
「……あれが」
イベリスが背中でぶるりと震える。
この少女をおぶさるようにしてから、だいぶ動きの自由度が増した。胴体同士を紐で縛りつけ、イベリスが手を離しても落ちないようにしている。少女は両腕を”蛇”の肩口から突き出して、自由に方向を指し示すことができるようになった。黒い手袋に包んだその両腕が、なぜだか蛇の頭と誤解されるようになったのは、誤算だったが。
「ものすごく、おおきなけはいだった」
「見た目は、なんてこともねえ二十歳そこそこの小僧なんだがな」
勇者アラン。
帝国が誇る最強の男。
数年前に神々の世界より降臨し、帝国の尖兵として幾多の戦場を駆け、幾多の武将を葬り去り、あらゆる戦局をくつがえしてきた、まさに一騎当千の男だ。
“蛇”も、帝都の社交界で何度か顔を合わせたことはある。
帝国の猛将たちとくらべると、ずいぶん細く、柔弱な印象を受けたが――臨戦態勢になった彼の放つ気は、まさに戦場の英雄にふさわしいほどの巨大さだった。
先ほど屋根の上から、民に聞き込みをしている彼のすがたを見つけたときは、黒衣の内側が冷や汗にまみれた。殺していた気配を見抜かれたのか、あの鷲のような両眼がこちらを向いたときは、一瞬、本気で死を覚悟したほどだ。
「……なーんでまた、あんな野郎に目ぇ付けられちまったかね。ちまちまとほそぼそと、やってたつもりなんだけどな」
「ん」
少女が”蛇”の顔のまえに冊子を突き出してくる。
そこに描かれていたのは、正義の味方『蛇王』の雄姿だ。
黒い衣装に、両肩から生えた二頭の蛇。
「こんなものが、子供のあいだにまで広まってやがんだからな……潮時だよな」
「かっこいい」
鼻息を荒くして、イベリスが言う。
冊子の表紙は豪華にも線が浮き上がるような加工が施してあって、指先でもどんな絵かイベリスにも分かったらしい。
あーそうだなよかったな、と”蛇”は乱暴にイベリスの頭をかき混ぜる。乳白色の髪の毛をくしゃくしゃに乱されながら、イベリスはきもちよさそうに顎を上げる。
「それで。帝都に残る声は、あといくつだ?」
「かずはわからない。でも、ずいぶんへった」
「あといくつの晩でなくなりそうだ?」
イベリスは困ったような顔をする。
そして、夜空の向こうに顔を向けた。
「ああまあ。分かんねえならしょうがねえやな。一個一個こなしていこうや」
「……ちがうの」
こちらに向き直ったイベリスの顔が、唖然としていた。
「こえが、へりはじめてる。すごいはやさで」
*
だまされたのだ。
そう気づいたときには、すでに手遅れだった。
路地裏の扉から突き出た何本もの腕が、少女の体を勢いよく引き込んでいく。あ、と思うまもなく床に転がされた。体のあちこちを擦りむき、打ち身ができたのが分かる。しかし、そんなことを気にしている余裕などないことが、少女を覗き込む男たちの表情で気づかされた。
「おーおー、けっこう上物じゃない」
「売るのもったいねえな」
「俺らで飼う?」
「やめとけ。また死んだときに処理が面倒だ」
「三日くらい愉しんだら、売っ払っちまうのが楽でいいさ」
にやにやと、男たちが話し合っている。少女の意志を完全に無視した言い分に、ぞっとした。
痩せた、若者といっていい年齢の男たちである。
汚らしい恰好は、いかにも破落戸といった風情だった。麻の葉でも噛んでいるのか、その目つきはどろりと曇っていて、どこか爬虫類じみた印象を与える。
見覚えのある顔だった。
数日まえ、少女の勤める雑貨店に男たちは現われた。少女のことを指さしてはいやらしい笑みを浮かべ、ほかの客にちょっかいを出してはまた仲間内でへらへらと笑う。けっきょく店主が彼らを追い出したが……かれらは、諦めていなかったのだ。
「なあ」
男のひとりが出てきて、少女に顔を近づける。
「おまえいくつ?」
「……」
「なに無視してんの? 答えろや」
「……っ、じ、十三歳、です……」
「処女?」
「え」
「処女かって聞いてんだよ」
少女は震えながらうなずいた。
男たちは歓声を上げ、なにやら順番を決めるため揉め始めた。
犯されるのだ、と少女は察した。
こんなはずじゃなかった。
少女は震えながら、給金の袋を握りしめる。
こんなはずじゃなかった。今日は、弟に薬と菓子を買ってやる日だったのだ。重篤な病ではないが、毎日薬を服用しなくてはいけない病弱な弟のために、少女は働いていた。ときどき余ったお金で買ってあげるちいさな砂糖菓子を、弟は楽しみにしていた。今日もそうするつもりだったのだ。弟は、どんなにか笑うだろう。少女は幼い弟の笑顔を見るのが好きだった。
やがて、男のうち、筋骨隆々の上半身を外気に晒したひとりが、一歩まえに出てくる。
「やあ、お嬢ちゃん。俺がきみの、生涯最初の相手だよ」
男が舌なめずりする。
「いやああああああああっ、たすけてえええええええええっ」
声の限りに、少女は叫んだ。
男はちっと舌打ちをすると、少女の頬を思い切り打った。衝撃に顔が歪む。銅貨の詰まった小袋を取り落とす。
「あ? なんだこれ」
「やめっ……」
給金の小袋が、男に拾い上げられる。
男は小袋を開けると、なかの銅貨をひいふうみいと数え、
「はした金じゃねえか」
放り捨てた。
仲間たちがいっせいに笑う。
なにを笑っているのか分からない。なにがおかしいのか分からない。地面に飛び散った銅貨を拾いたいが、さっそく下履きを脱ぎはじめた男を見て、それも許されないのだと気が付いた。
放り捨てられた銅貨が、置き去りにされた銅貨が、弟の笑顔に見えた。
男がのしかかってくる。
天を向いてそそり立つおぞましいものが、少女にゆっくりと近づいてくる。
いやだ。
いやだ。
誰か、誰か、誰か――。
「そこまでにしておけ、狼藉者」
声とともに、扉が開いた。
月明かりに照らされ、人影が立っている。黒衣をまとう立ち姿が、どこか凛々しく、神々しくさえ、見える。
「なんだてめえは」
男のひとりが反応して人影ににじり寄る。人影の顔を覗き込もうとしていた男の顔が、ふいに沈んだ。人影がかがやく剣を抜きはなち、男の両足首を斬り払ったのだ。
「あぐっああああ! 足が! 俺の足があっ!」
男たちの反応は機敏であったと言ってもいい。
すぐさま思い思いの武器を抜き、人影に向かって構えたのだ。だが、襲撃者たちはそれよりも速かった。月光にかがやく剣を構えた人影の脇から、するり、と二つの影が駆け込んできた。
「勇者様。ここはわれらに」
「下衆の血で聖剣を汚してはなりませぬ」
影――黒衣の者たちの強さは、異様だった。
反応もできない速度で男たちのふところに飛び込み、喉を裂き、腕を落とし、はらわたを引きずりだしてゆく。
男たちが、またたきする間に血と肉に化けてゆき、その場に斃れてゆく。
いま、なんと言った?
少女はおのれの耳に問う。
いま、なんと聞いた? 勇者様と? 聖剣と? なら、あそこに立っているのは、うつくしい剣を携えて、月明かりのなか傲然と立つ、あの覆面の男は――。
足を失った男が床を這って逃げようとしていた。
覆面の男が、そのまえに立ちふさがる。
「――の元に」
なにごとかを口のなかでつぶやき、覆面の男は刃を振るう。
剣が、足を失った男の首を断ち切った。
「あ――」
思わず声を漏らした少女を、黒衣の男たちが振り向く。
恐慌に陥りかけた少女に、覆面の男が手を差し伸べてきた。
「立てるか」
少女がその手を伸ばすと、ぐい、と引き寄せられるように立ち上がらされた。
抱きとめられるような恰好になった少女に、黒衣のひとりが小袋を差し出す。
給金の小袋だ。
いつのまに集めておいてくれたのか。なかを伺うと、銅貨は一枚たりとも欠けていない。
「では」
覆面の男が踵を返した。
呼びとめる間もないままに、黒衣の三人組は扉の向こうへ、闇のなかへと消え去っていった。
少女は、胸を掴む。
希望に笑みを浮かべて、言う。
「勇者――アラン様!」
*
勇者アランが、夜警を始めた。
その報はまたたくまに帝都にひろまった。勇者様は蛇王とおなじくすがたを闇夜に隠し、陰ながら悪を叩き、弱きを救っている――。黒衣をまとう剣士に救われた人びとが、熱っぽく噂をしはじめる。
勇者様が、助けてくだすった。
勇者様に、救っていただけた。
名乗らなかったが、顔を見せなかったが、あれはまちがいなく、まぎれもなく、勇者様だった。
あのかがやく聖剣を持つのは、勇者様だけなのだから。
人びとは勇者を讃えた。
蛇王に倣い、勇者は動いている。蛇王の成す正義を、勇者が認めたのだ。どちらが善も悪もない。対立などない。勇者という正義に、蛇王という正義の味方。両者は同じ側に立っていたのだ。
勇者よ。
蛇王よ。
正義よ。
そのありさまに、祝福あらんことを。
思いもよらない事態に、帝国中枢は混乱をきたす。民草を救えなどと命じた覚えもなければ、彼がそうする謂れもない。奴輩はなにを狂乱したのか、と摂政が歯嚙みをする。
しかし。
実のところ。
もっとも困惑し、もっとも混乱していたのは――
勇者アラン、そのひとであった。
「なんなのだ」
夜に向かって勇者アランは吠える。
「いったい何人いるのだ――俺のにせものは!」