18.へびさんは、どろぼうさん?
セルパンは、舞踏会を愛していた。
華やかな世界を好む性格である。きらびやかな屋敷の装飾も、目に眩しいシャンデリアの輝きも、丁寧に盛り付けられた色とりどりの料理たちも、しっくりくる。皮肉の利いた会話も好きだし、大金が賭けられるカード勝負にも熱中させられる。糊のきいた燕尾服に袖を通し、髪をきれいに撫でつけたじぶんを鏡で見るのも、これはこれでいいものだ。
しかし、なによりも楽しみなのは――
うつくしいドレスを身にまとった貴婦人たちを、眺めることである。
最近の貴族社会における流行には、もろ手を挙げて感謝の念を示したい。
なにせ、胸元が空いている。
ざっくりと開いた襟が流行しはじめたのは、例の派手好みの王妃の影響だが――それがすっかり普及してからというもの、白い肩と鎖骨と、それから胸の谷間を見ることには事欠かなくなった。
いいねえ、いいねえ。
セルパンは笑顔を浮かべながら、フロアの片隅に陣取っていた。
もちろん、その視線は貴婦人たちの胸元を周遊している。
女性はすばらしい。
老いも若きもみな、それぞれにうつくしい。
社交界デビューしたての初々しい娘たちには、開くまえのつぼみのような魅力があるし、人妻には熟れた果実のような甘みがある。セルパンはこれまで、数えきれない人数の貴婦人を寝台へとみちびいていたが――それでも、愉しめなかったことなど一度もない。
「おや、モンフォール伯爵! こんなところにいらしたのかね!」
「これはこれは、ダンマルタン侯爵閣下」
肥った貴族のひとりが話しかけてくる。この舞踏会の主催であり、屋敷の主人である、ダンマルタン侯爵だ。
連れの婦人に対し、セルパンを指し示して言う。
「おまえ。こちらが噂のセルパン・ド・モンフォール伯爵だ。ここ数年社交界を騒がせている、名うての漁色家だよ」
「まあ、あなたが」
連れの貴婦人――二〇代半ばほどの、肉付きのよい女性だ――が、目を丸くして笑う。
「お噂はかねがね聞いておりますわ」
「おやおや。その分じゃ、ろくな噂は立っていないようですな」
肩をすくめてみせたセルパンに、「なにをいまさら」と侯爵が大笑する。
「いまの帝国社交界で、きみの艶聞を耳にしたことのない婦人などおらんよ。あの公爵夫人とのロマンスはいまでも語り継がれているし、噂によっては大公閣下のお嬢様にもちょっかいを出したとか」
「手ひどく振られましたがね」
「その割には、お嬢様がいたくきみにご執心だったようだがな?」
侯爵の目くばせに、セルパンは眉を持ち上げて笑みを返した。
「さすが。侯爵閣下はお耳が早い」
「ははは! わしの事情通ぶりを侮っていたようだな!」
うれしそうに呵々大笑する侯爵に、「お見それしました」と頭を下げてみせながら――セルパンは、そっと侯爵夫人を盗み見た。濡れた目でたっぷり一秒見つめ、唇を舐めてみせる。
侯爵夫人の耳が真っ赤に染まる。
豊満な胸元を、さりげなく隠しながら。
――決まりだ。
今晩も、愉しい夜になりそうだ。
*
三度目に気をやったあと、侯爵夫人はそのまま眠りに落ちてしまった。頬を軽く叩いてみても、起きる様子はまるでない。
寝台を立ち上がると、セルパンは十を数えるよりも早く、燕尾服を身にまとった。着替えのすべてを下僕に任せているほんものの貴族たちには、とうてい真似のできない芸当だろう。
セルパンは、そっと寝室を後にした。
かかとを鳴らす貴族流の気取った歩き方から、足音を殺す隠密稼業の歩き方へとすでに移り変わっている。
セルパンの時間は終わりだ。
これからはザッハーク――”蛇”の領分である。
華やかな舞踏会の音楽が、壁の向こう側から漏れ聞こえている。屋敷の裏をときおり通る使用人たちの目をかいくぐりながら、”蛇”はなんの苦労もなく、目的の部屋へとたどり着いた。
ダンマルタン侯爵の、書斎である。
ダンマルタン侯爵は、帝国軍において兵站を担う、補給官の責任者でもあった。帝都の南にある糧秣庫を管理し、そこに集約した食料や秣のような補給品を各地の戦場へと送り込むのが、補給官の仕事だ。
しかし、その仕事には裏がある。
糧秣を届け、帰ってくる荷車は、ほんらい空であるはずだ。
帝国の書類上も、そうなっている。
しかし、その荷車には――各地で収集された、”闇荷”が積み込まれているという情報があった。
”闇荷”の正体は、分からない。
”蛇”は、人身売買ではないか――と考えていた。教団には、まだ報告をしていない。確証が得られていないのだから、人員を動かすほどのことはない。じぶんが確信を持てた段階で、声を掛ければじゅうぶんだ。
実際の荷車を確認することは難しい。
腐っても、帝国の兵站線である。敵国の工作によって断ち切られることのないよう、護衛にはまとまった数の正規兵が充てられている。その目をかいくぐって荷車を確かめる……というのは、危険が大きすぎる。
であれば、と”蛇”は考えた。
ダンマルタン侯爵自身であれば、”闇荷”の内容や数量を管理しているであろう。それも、帝国軍営に設えられた執務室に置いておくような間抜けはすまい。となれば、私邸の書斎を探るのが、いちばんだ。
「さあて……と」
”蛇”は両手に手袋を嵌めると、肩をこきこきと鳴らした。
調べ物は得意ではないが、長年の付き合いによって貴族の思考回路はほとんど掴んでいる。ひとに知られてはならない機密書類の隠し場所なんて、幾通りもありはしない。
あとは、どれだけ素早く目的のものを入手して、この場を後にできるかが勝負だ。
にやり、と”蛇”は笑う。
貴婦人との逢引きもスリリングだが――
”本業”のほうが、よほどおもしろい。
*
さほど時間を要せずに、”蛇”は目的の書類を見つけた。
内容は判読できない。暗号だろう。教団に送って解読してもらうしかあるまい。ここで悠長に時間を費やすことはできない。夜更けまではまだ時間があるから、舞踏会はまだまだつづくはずだが――いつ、客のひとりが迷い込んでこないとも知れない。
散らかした書籍や書類を、すばやく元の場所に戻していった。
さいわい、この書斎は掃除が行き届いていたから、綿埃の跡などを気にする必要はなかった。あらかじめ記憶していた配置に、書籍を差し込み、書類を戻していく。乱雑に置かれていたものも、元の位置へ。
じきに、だれかが手をつけたとは到底思えないできばえとなった。
満足した”蛇”が、燕尾服の袖の埃を払っていると――
「だれ?」
後ろから突然ひびいた声に、”蛇”の体は自動的に動いた。
蝋燭を掻き消して、足音もなく床を蹴り、視線さえも追いつかない速度で、声の持ち主の背後へと回り込む。懐から取り出していたちいさなナイフでその喉を断ち切ろうとして――思いとどまった。
少女、だったのだ。
”蛇”は基本的に、女子供を殺さない。
彼の信条によるものであり、教団の命令だろうが、相手がどんな腐った人間だろうが、同様だ。もはやそれは有無を言わさぬ呪いに近い。
”蛇”の動きが、一瞬遅れる。
少女が振り向いた。暗視の訓練を受けた”蛇”の目が、そのすがたを見て取る。
ふしぎな髪色をした少女だ。
白とも銀色ともつかない、色褪せた真珠のような色。ていねいにくしけずられ、腰まで伸びた髪の毛だ。ふわりとした寝間着を着ており、足元は裸足だった。
そしてその目は――固くつむられていた。
盲いているのだ、と”蛇”は気が付いた。
「お父さま……?」
「いーや。違うよお嬢ちゃん」
やさしい声音で、”蛇”は話しかける。
「きみは、ここの家の子かい? お父さんは、ダンマルタン侯爵?」
「うん」
おかしい。そんなわけはない。
ダンマルタン侯爵に、この年頃の娘はいない。そもそも妻帯をしたのがわずか五年前の話だ。目のまえの、どう見ても十歳は超えているだろう少女が娘だとすると、年齢が合わない。
「あなたはだれ?」
「……」
セルパンの名を名乗るべきかどうか、”蛇”は悩んだ。
あとで侯爵に「書斎でモンフォール伯爵に会ったよ」などと話されれば、じぶんは一瞬で窮地に陥る。調べれば、すぐに書類がなくなっていることも分かるだろう。教団に写しを送り、そっとこの書類を元の場所に戻すまで、不審の目を向けられるわけにはいかなかった。
かといって、口封じをすることもできない。相手が少女だからだ。
「おじさんはね、”蛇”って呼ばれているんだ」
「へび?」
じぶんはなにを言っているのか、と”蛇”は焦った。
適当な名前を名乗ればよかったのだ。知り合いの貴族でもなんでも。よりにもよって、明かしてはならない方の名を明かすとは。じわりと手のひらに汗が滲んだ。
「へびさんは、どろぼうさん?」
「……」
ほら。
完全に怪しまれている。
いつものじぶんらしくもない。この少女を目にしたときから、どうも調子がおかしい。
「……あのね、へびさん」
「なんだい?」
「へびさんがどろぼうさんなら、わたし、おねがいがあるの」
お願い?
泥棒に対して、何を?
少女は両手を重ね、お祈りするような姿勢で”蛇”を見上げた。
「わたしを、ぬすんでください」