13.それじゃーあと十九回だよー(修正版)
老人が振り返る。
と同時に、クロエの拳が叩き込まれた。体重の乗った一撃に、老人の巨体がぐらりと揺らぐ。クロエはその場で跳躍し、老人の頭の高さまで飛び上がると、そのまま両足を老人の顔面へと叩き込んだ。
すさまじい音とともに、巨体が床へと倒れこむ。
「――っし!」
クロエが、勇ましく拳を立てる。
「クロエっ!」
「お待たせしちゃって申し訳ないっす、うーりゅ。騎士様の登場ですよ」
「まだ他にも敵が……!」
「いや、もういないっすよ。誰ひとり」
こぷ、という音にリュリュは振り向く。
黒服の男たちの喉から、血塗られた刃が飛び出ていた。こぷぷ、と血液を吐き、男たちはつぎつぎと斃れていく。
その陰から現れたのは、黒衣と黒覆面をまとった男たちだ。黒服たちと比べて、剣呑な気配はより強くただよわせていたが……ふしぎと、怖くはなかった。
「”猫”、怪我はないか」
「先輩っ」
黒衣の男たちから、ひときわ背丈のちいさなひとりが進み出てくる。
まるで子供のような声だったが――その手に、顔面を腫れ上がらせてぐったりとした口ひげの男が引きずられているのを見て、ただものじゃないということは知れた。
「その男――」
「十七発叩き込んでやった。こいつだろう、おまえの腹を殴ったのは」
ちいさな黒衣が、口ひげの男を蹴飛ばした。
口ひげの男が、うう、と唸って沈黙する。
「えーと。正確にいうと、殴ったのはそいつじゃなくて……」
「関係あるか。俺の猫に手を上げたこと、一生後悔させてやる」
「い、いつもの先輩じゃないっす」
クロエが親しげに話しているのを見て、気が付いた。
このちいさな黒衣が、この少年が、クロエの大切なひとなのだ。想像よりもずっと幼かったが……周りの黒衣たちの態度を見ていると、この少年が重要な地位にあるのだと分かった。クロエもまた、同様だ。
少年が、マリーとシャルルに顔を向ける。
ふたりは黒衣たちに助け出され、傷に包帯が巻きつけられていた。短くなってしまった手足が痛々しい。ほんのすこしだけ、救われたような顔をして、ふたりはおなじことばを言う。
「おぉしぇ……」
覆面越しに、少年が歯噛みしているのが分かった。
彼が手を上げる。マリーとシャルルとを手当てしていた黒衣のひとりが、うなずき、短刀を取り出した。
「待って!」
とっさに、リュリュは声を上げていた。
少年の動きが止まる。すぐにリュリュは周囲を見渡す――あった。マリーとシャルルのものと思しき両腕両脚が、部屋の隅に打ち捨てられている。血をうしなって白くなったそれらは、しかしまだ使える(傍点)。
「まだ間に合う」
わたしなら、ということばをリュリュは飲み込んだ。
しかし少年は理解してくれたようだ。黒衣にうなずくと、彼らは丁寧にマリーとシャルルを運び出してくれた。両腕両脚もいっしょにだ。
リュリュの胸に、ちいさな安堵が広がる。
「さて――本題に移るか」
少年が覆面を取り去った。
中から現れたのは、黒い髪に黒い瞳を持つ少年だった。ふしぎと印象は薄く、人混みのなかではすぐに見うしなってしまいそうだ。けれども、瞳に宿る光だけは強烈だった。
少年は、壁の隅で苦悶の声を上げている老人に声を掛ける。
「さ、そろそろ起きていただけますか。大司教猊下」
転げまわる老人が、ぴたりと動きを止める。
鼻が折れ、鼻血を噴き出した顔をぬぐいながら、少年へと向ける。
「おまえ……私のことを」
「ええ。むろん存じ上げておりますよ、二コラ・マルティヌス大司教猊下」
少年がにっこりと笑う。
大司教……いま彼は、そう言ったか?
大司教といえば、聖教会における信仰の中心のひとりだ。聖教国にいる教皇に次ぐ地位を持ち、ここ帝都においてはまぎれもなく至高の聖人である。
「十字聖教」は、かつてあった宗教たちの統合を済ませ、現在大陸全体であまねく信仰される一神教である。その教えを広め、神のしもべたる民徒を導くのが、各地にある聖教会の務めだ。
帝国、大公国、王国連邦……国の大小を問わず、すべての国の首都には聖教会の中枢「大聖堂」が置かれ、教皇より直々に任じられた「大司教」たちがその国の信仰をつかさどっている。
大司教とは、各国における信仰の象徴ともいえる存在なのだ。
エルフであるリュリュにとっては、他種族の信仰に過ぎなかったものの……まさか、人びとを教え導く立場にある人間が、ここまで狂乱し腐りきっていたとは。
震えるような思いを、リュリュは抱いた。
「少年よ。黒衣の者どもよ」
老人――マルティヌス大司教が立ち上がった。
「私のことを知りながら、狼藉を働いたことは、赦そう。追って沙汰を下す。神の御名と威光の元に、道を開けよ」
「お断りです、猊下」
少年がにっこりと笑う。
無垢な子供のように。
「なっ……なにを」
「なにを、ではありませんよ、猊下。まだあなたの因果を問うておりません」
「因果……? なにを言っておる」
「われわれの神が、あなたを赦しはしないってことです」
大司教の顔が、みるみるうちに赤みを増していく。
「きさま……きさまら! 異教徒か!」
「御明察の通り」
「異教徒は赦さぬ! 教皇閣下は、妖魔怪異を信奉する邪教徒を、徹底的に排斥せよとのおことばを発しておられる! きさまらはいますぐ悔い改め、邪教を捨てることをここに誓え! もしくはこの場でみずから縊れるがよい! 誰か! 誰ぞある!」
大司教が大声で呼ばわった。
返ってきたのは、しんとした静寂ばかりだ。
「さっき言いましたよね、大司教さん」
クロエが言う。
「もう、誰ひとりいないって」
「なに……なんだと!」
「全員、殺した」
少年が、大司教に詰め寄っていく。
「よくもまあ、やってくれたな? よくもまあ、やりやがったな?
このちんけな建物に聖教会式の結界魔術をほどこしたのは、あんたの仕業だろう? 内部から招かれなければ入れない(傍点)なんていう、吸血鬼避けの結界なんて、よくもまあ使ってくれたもんだな? え? だがこのとおりだ。侵入さえできれば、おまえたちをみなごろしにすることなんて難しくはない。それが、俺たちの仕事だからな」
「なんだ――なんなのだおまえたちは!」
「俺たちを知らない? ほんとうに、知らないか?
あんたくらいの立場にいた人間が俺たちを利用した数は、二度や三度じゃ利かないはずだ。あんたたち聖教会が、唯一、その存在を知りながら見逃した異教徒集団が、あっただろう? 必要悪と呼んで、政敵をこっそりと殺すのに、俺たちを使っていただろう? 覚えていないか? ほんとうに? ほんとうに?」
「おまえたち……まさか……」
大司教がわなわなと震える。
ずらりと並んだ黒衣が、大司教の周囲を囲んでいた。その中心に立ち、少年は傲岸不遜に言い放つ。
「そう。――俺たちは、”暗殺教団”だ」
大司教が、ふたたびその場にへたり込んだ。
「だ……誰の差し金だ。
副司教か? 皇帝か? それともまさか……聖教国が? 私を始末しろと?
いやいや落ち着け。話せば分かる。
そうだ、今回の話にいくら出された?
その三倍、いや、五倍の値でおまえたちを買おう。この仕事はここでおしまいにしようじゃないか。な? いい話だと思わんか?」
「勘違いしないでほしいっす、大司教さん」
まくしたてる大司教を、クロエが制した。
「わたしたちは、だれかに雇われたわけじゃないっす」
「じゃあ、どうして……?」
「暗殺教団は、われわれの教義に基づき、動いている」
長身の黒衣が言う。
「すなわち、因果応報のために」
「因果応報のために」
黒衣たちが声を揃えて唱和した。
異様な雰囲気を感じ取ったのか、大司教は口をぽっかりと開けた。
「では、始めるぞ」
少年がおおきく口を開いた。
「十字聖教所属帝国大聖堂統括、二コラ・マルティヌス大司教!
因果応報の理に基づき、この者の因果を問う!」
「因!」
黒衣の男たちが、大声を揃えた。
「因――この者は、おのれに与えられた財を用いて人びとを助けるべきところ、おのれの歪んだ欲望を晴らさんがために、その財を用いて罪なき子供たちを買った」
「果!」
「果――しかるのち、子供たちはあまりにむごたらしいやり方で傷つけられ、慈悲を乞うても与えられず、この者の欲望のままに死へと追いやられた。その数、十八名加えて二名」
「応!」
「応――人びとに勧善懲悪を説きながら、その裏では暗黒の背徳に手を染め、純粋無垢なる子供たちに死を強いた罪は、あまりにも重く、酌量の余地はない」
「報!」
「報――故に、二十回の死を以て、この者への報と為す」
罰が決まった、らしい。
大司教はすっかり雰囲気に呑まれ、ひとことも口にできないままだった。少年は背後を振り返ると、黒衣のひとりに手を振った。
「”車輪”」
「はっ」
「この報をおまえに任せる」
うひ、と。
呼ばれた黒衣が笑い声を上げた。
「それと――リュリュ」
「えっ」
「きみは、治療魔術を得手としているんだったね。愉快な仕事とは言えないが、手伝ってほしい」
少年のまっすぐな瞳が、こちらに向けられる。
「先輩。うーりゅを巻き込むのは――」
「いいの、クロエ」
間に入ってくれたクロエを止め、リュリュは少年にうなずき返した。
「やります」
「ありがとう。助かるよ」
にっこりと、少年は笑う。
*
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い。
苦しい。
思考のすべてが、痛覚に支配されているようだった。
ほかのなにも考えることはできなかった。長年築き上げてきた人格のすべてが、無駄になっていくのを、無価値になっていくのを、二コラ・マルティヌスは見ていた。あんなに執着した大司教の地位だって、あんなに積み上げた神への愛だって、目のまえの苦をどうにかしてくれるなら、いくらでも捨て去ることができると思えた。
「ほらほらーどうしたのかなー」
愉しそうな、ほんとうに愉しそうな、少女の声がする。
「痛いのかなー苦しいのかなーつらいのかなー逃げたいのかなー。
まだ死にたくはないのかなー死にたいとは思えないかなー。
じゃあもうちょっと、もうちょっとだけがんばろうねー」
「いぎいぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎいぎぎいぎぎいぎぃぃぃいぃいぃっ!」
のたうちまわる。
のたうちまわるのに、痛みは離れない。離れてくれない。
「かわいいよーすっごくかわいいよー素敵だよーおじーさんー。
痛いよねー痛いよねーすっごくすっごく痛いよねー。
ここに油をそそぐともっと痛いんだよーほらー」
「あぎゃあがやがああがあああがっ」
「かわいいよーいいよいいよーほんとにかわいいよー」
少女が悦びの声を上げる。
二コラ・マルティヌスのやり方とは違った。ちいさな、ごくちいさな、見た目にも地味なことが、こんなにも痛いなんて、こんなにも苦しいなんて、思いはしなかった。地味なことを長い長い長い時間をかけて行い、それからすこしずつ、すこしずつ、派手なことへと移っていった。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
その思いが脳味噌のなかを占めて、気をうしなうことも、気が狂うことも許されず、ただ、痛みと苦しみが巨大に巨大に膨れ上がっていく。
この先に暗黒がある、と二コラ・マルティヌスは知っていた。
ある閾を超えると、ひとは死ぬ。
その閾にたどり着くまでをどれだけ永らえるかが、腕だ。
ひとは暗黒へ手を伸ばそうとする。それを止め、生きることにまた目を向けさせ、また生きることの苦痛を思い知らせ――そのくりかえしを、飽きずに、何度も何度も何度も行う。
この”車輪”という少女は、まちがいなく一級品の天才だった。
二コラ・マルティヌスはやがてかたちを失い、時間さえも分からなくなり、すべての思考が奪われ、反応を返すだけの植物となり、溶けて、溶けて、そして。
ようやく、死んでゆく。
やすらぎの暗黒が、じぶんの体を包み込んでいくのが分かる。これで全部が終わったのだ、と、かたちを持たない自我が解放感に包まれる。
しかし、
――このもののからだに、いきるちからを、いのちを、おあたえください――
ことばが聞こえた。
身をつつむ暗黒が散らばっていくのが分かった。浮遊感が消えうせ、また肉体の重みがよみがえっていった。時間が巻き戻っていくように、傷が、痛みが、苦しみが消えうせ、意識が戻った。
二コラ・マルティヌスは目を開く。
まるで赤ん坊として、新生したような心地で。
そこに待っていたのは――
「はーいーおかえりなさいー」
あの、悪魔めいた笑いを浮かべた、”車輪”という少女だった。
その脇には、リュリュというエルフ少女が立っている。無感動な顔をこちらへ向けながら。
治療魔術、という単語が頭に浮かぶ。
エルフの一種には、死の淵からさえ、いのちを救ってみせる魔術を持つものが存在するのだという。すべての怪我を治癒させ、すべての損傷をなくし、完全な健康状態に戻らせるという、奇跡のような魔術を。
じぶんは、よみがえったのだ。奇跡のような魔術を使われて。
普通なら、神に感謝を捧げるところだろう。両手両足を拘束されて、この悪魔のような少女の前に捧げられているのでなければ。
「それじゃーあと十九回だよー。
がんばろうね楽しもうねーかわいいよーかわいいよー」
十九回。
そのことばで、ようやく気が付いた。
あの少年が命じたのは、二十回の死。
つまり、それはこういうことなのだ。
「いやだっ」
二コラ・マルティヌスは顔を歪める。
傷ひとつないまっさらな、きれいな顔を。
「いやだあああああああああああああああああああああああああっ」




