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12.いのちは儚く、そしてそれゆえにうつくしい

 抗わなければ。

 口ひげの男の笑みから目を離すことができないままに、リュリュは思う。

 抗わなければ、逃げなければ。

 しかし体は動いてくれない。

 蛇に睨まれた蛙は、身じろぎひとつできなくなり、無抵抗のままに呑まれるのだという。

 わたしは蛙だ。


「うーりゅから離れるっす、この野郎!」


 口ひげの男の腕に嚙みつこうとして、クロエは男の両脇の護衛にあっさりとさえぎられた。

 何度も何度も体当たりするのに、護衛の太い腕はびくともしない。


 これが力の差なのだ。

 抗ったって、同じこと。


「おやおや、どうしたのかなクロエ。きみらしくもない」


 口ひげの男が、困ったように手を広げた。

 いつのまにか、リュリュは立ち上がって男の隣に立っていたじぶんに気がつく。男の手が、肩へと置かれていた。

 体が小刻みに震え始める。


「きみは明るくていい子だったろう? 大人を困らせちゃあいけないな」

「うるさい!」

「おやおや。困った子だな。……やれ」

 

 護衛のひとりが、クロエの腹に思い切り拳を叩き込む。「ぐっ……」というくぐもった声とともに、クロエの体が床へとくずおれる。胃の中身を戻しながら。


「ぐっ……おっ……えええっ……!」

「クロエ!」

「まったく、困るな。商品に傷を付けたくないのに。さあ行こうかリュリュ。いつまでもぐずぐずしているようだと、わたしたちも退屈してしまう。そうしたら、クロエに暇つぶしに付き合ってもらう他ない」

「っ……」


 まぎれもない、脅迫だった。

 はやく言うことを聞かないと、クロエを傷つける、というのだ。

 男のことばは的確にリュリュの躊躇を溶かした。


「……行き、ますっ」

「よーし、それでいい」


 苦悶の表情で突っ伏しているクロエを捨て置いたまま、口ひげの男がクロエの背中を押した。

 閉ざされていた扉をくぐり、大部屋の外へ出る。


 廊下は薄暗く、地下牢めいた印象だった。

 なんらおかしいことはない。

 ここは地下牢なのだ。大部屋のなかを、装飾と玩具でとりつくろっただけの。


 廊下を歩き始めながら、男はリュリュにささやく。


「まったく、こんなに抵抗されるとはね。クロエになにを吹き込まれたんだ? おおかた、マリーやシャルルが戻ってこないのはおかしい、きっと殺されたんだ。……そんなところだろう?」

「……」

「勘違いも甚だしいな、彼らはまちがいなく生きてるよ」


 口ひげの男の顔を、リュリュは見上げる。

 あの笑みにおおい隠されて、ほんとうの感情はうかがい知れない。

 でも、とリュリュは思う。

 ひょっとしたら、ぜんぶ杞憂だったのかも。クロエの考えすぎであって、実際にマリーやシャルルは客に気に入られて連れ帰られただけなのかもしれない。


「そもそも、君たちには高いお金を費やしてるんだ。

 それをそう簡単に殺すほど、私たちが愚かに見えるかい?」


 口ひげの男が、困ったような笑顔を向けてくる。

 そうだ。きっとそうなのだ。

 確かに”歓待”は強要されるだろう。それはいまでも怖くてたまらない。けど、歯を食いしばって耐えれば、すぐに終わる。クロエのことを思い出せば、耐えられる。

 相手の男も、こちらが行為のあいだずっとにらみつけてやれば、きっと、わたしのことを気に入ったりはしない。そうすれば、あの大部屋に帰れる。クロエに、また会える。


 クロエ。

 わたし耐えるよ、クロエ。

 だからわたしが帰ってきたら、また笑ってよ。

 うーりゅって呼んで、もう一度頭を撫でてよ。クロエ。


 心のなかの笑顔に、リュリュはそう話しかけた。


 *


 客は、やさしそうな老人だった。

 孤児院の院長を務める篤志家だ――と紹介されたら、リュリュも納得して頷いただろう。肥ってはいるが、つやつやとした白い肌に不潔感はなく、顎に長くたくわえた白ひげもきれいに梳かされている。おおきな体は、ゆったりとした絹のローブにつつまれていた。首からは、大粒の真珠を束ねた首飾りを下げている。


 客が待っていたのは、暗い部屋だ。

 上から落ちる照明が、老人の座る椅子と、その傍らの寝台だけを照らしている。その周りは、くろぐろとした闇によってさえぎられ、なにがあるのか見ることはできない。どれぐらいの広さがある部屋なのかさえ、分からなかった。鉄錆のにおいがむっと鼻をついた。虫の羽音のようなぶんぶんという音が耳に響いている。


 口ひげの男は部屋のまえまでリュリュを連れてくると、彼女がドアノブを回すところまで確認した。部屋のなかには同道せず、リュリュが入るとともに施錠した。予想していたから、べつだん、驚きもしなかった。


「リュリュ……だったね。さあこちらへおいで」


 老人が寝台を指し示す。

 おずおずと近づいて、そのうえに腰かけた。すぐにのしかかってくるものと覚悟していたが、老人は椅子の上に掛けたまま、それ以上近づいてこようとしない。


「まず先に、ひとつ話をしておきたい」


 老人が語り始めた。

 人前で話すのに慣れた、よく通る声だ。聞くものを安心させる、低くおだやかな声だ。


「誤解を解いておきたいのだよ。私は決してきみを性的に搾取しようと思ってきたわけではない。きみとおしゃべりがしたくてきたんだ」

「話……?」

「ああ。対話が、私の望みだ」


 話をしたい、と老人は言う。

 もしかしたら、とリュリュは思う。ほんとうに、なんでもないのかもしれない。この館が背徳の館であることに変わりはないだろうけど、このひとは違うのかもしれない。

 こんなにやさしそうな顔をしているひとなのだもの。


「どんな話を……?」

「昔の話さ」


 老人は中空を見るようにして言う。


「私がまだ若く、神に対して純真な畏敬を抱いていたころのことだ。そのころ、魔女裁判、と呼ばれるものがあった。知っているかな、リュリュ」


 リュリュは頷く。


 魔女裁判。

 半世紀まえごろから流行りはじめた風習だ。人間の多くから魔術がうしなわれ、魔術を用いるものは闇の神のしもべである「魔女」と呼ばれるようになった。その彼女らを危険視し、あぶり出そうとする運動は、魔女狩りと呼ばれた。

 魔女裁判とは、魔女の嫌疑をかけられたものの真実を問う裁判のことだ。……そのように、聖教会発行の本には書かれていた。


「そう。たしかに、聖教会はそのように発表している。だが事実は、もっとむごたらしいものだった」


 老人は語る。

 魔女の疑いをかけられた者は、みずからの嫌疑を晴らさなければならない。さまざまな証拠に対して反証をしてみせなければならない。魔女はみな、火あぶりになるのが定めだからだ。しかしその証拠というのが、すさまじい。


 体のどこかに黒子や痣があれば、魔女。

 猫を飼っていれば、魔女。

 鴉といっしょにいるところを見られたら、魔女。

 身体障害があれば、魔女。

 近くの村で家畜が死ねば、魔女。

 植物や果物を家に干していたら、魔女。

 日没後に出歩いていれば、魔女。

 幼児に指をさされたら、魔女。

 誰かの悪夢に登場すれば、魔女。

 重石とともに水に沈めて助かれば、魔女。

 熱く焼かれた石を抱いて焼け死ななければ、魔女。

 槍で突かれて流れる血が止まれば、魔女。

 飢えた犬に追わせて嚙み殺されなければ、魔女。

 拷問に耐えかねて自白をすれば、魔女。


「死を強要され、死ななければ魔女として殺される。それが魔女裁判というものだった。……私は当時、若い修道僧として魔女裁判の現場に立ち会っていたのだ」


 老人の目が、細められた。

 陰惨な現場を思い出して苦痛を感じているのだろう。老人の眉根にはくっきりと苦悩の縦じわが刻まれている。


「いまでも目蓋の裏に写っていて、離れないのだ。

 死を強要される女性たち。

 おぞましい拷問に苦しみ、助けを乞い、境遇を嘆き、とりかえしの付かない傷を見て泣き叫び、やがて涙も枯れ、虚ろな目で死を希い、やすらぎを求め、おまえは魔女か、との問いに頷く。

 しかし、火あぶりに遭う段になると、急に我に帰って、助けて、助けて、魔女じゃない、わたしは魔女なんかじゃない、お願い……そうくりかえすのだ。

 しかし火刑の執行が中断されることなどなく、その女性は、肉が焼け骨が焦げる苦痛に、絶叫する。まだこれほどの声が出せるのかと、こちらが驚くほどの声だ。

 それほどに、焼け死ぬというのは痛いのだ」


 あまりに残酷な行為に、リュリュは吐き気を覚えた。

 ひどい。

 ひどすぎる。

 人間というものは、なんと醜いものか。

 人間というものは、なんと哀れなものか。


「私はそれを見てきた。つぶさに、いちばんまえで、見つづけてきた。うら若き女性が、美しく、生命力と可能性に満ちた女性たちが、そうやって何人も何人も殺されていくのを、ただ見つめた。

 そして、わたしは思ったのだ――」


 老人の目が開く。

 その瞳が、こちらへ向けられる。


「――なんと、うつくしいのだろう、と」


 老人の瞳は、

 狂った炎に満ちみちていた。


「うつくしい女性が、苦しみ、苦しみ、苦しみ抜いて死んでゆく。苦悶の表情には、その先の人生すべての命が凝縮されている。まるで炎が燃え上がり、あっという間に燃え尽きるように。いのちは儚く、そしてそれゆえにうつくしい。神はそのようにいのちをおつくりになったのだ」

「ひっ……」


 老人の声が取り憑かれたように高くなってゆく。

 完全に壊れたその目から、リュリュは視線を逸らすことができない。


「私は、そのうつくしさに憑かれたのだよ、リュリュ。

 神を讃えることとは、いのちを使い切ることだ。神の被造物を、そのもっともうつくしいかたちで堪能することで、私は全能たる父を祝福するのだ。

 ……たとえばほら、こういうかたちで」


 老人が合図をすると、火が灯る。

 黒い服を着た男がランプを灯したのだ。それとともに、部屋のなかになにがあったかが分かる。


 ――あまりにも、むごたらしい光景だった。


 最初、それはちいさすぎてひとには見えなかった。しかし赤黒い血液や青あざが着いているそれが、肌の色だと気づいた。

 手や足が奪われているのだ。

 荒いのこぎりを使ったのだろう、切断面はぐちゃぐちゃに組織が断裂し、まるで果実を砕いたようだ。そこを血止めのために焼き潰してあり、どす黒く変色している。

 胴体のあちらこちらには無数の切り傷や刺し傷があり、性器のあたりは特に念入りに傷つけられている。

 顔もひどかった。舌は二重三重に切られ、耳鼻は削がれてうしなわれ、目はくり抜かれたのか、空っぽの眼窩から絶えず血とどろりとした透明の液体を流しつづけている。その表情は恐怖に引きつっている。


 なによりもひどいのは――

 そんなになっても、まだ、それが生きているということだ。


「いやっ……い……いやぁぁぁぁぁぁ……!」


 半狂乱になりながらも、リュリュの頭の片隅で冷静な部分がこう告げている。


 よく見ろ。

 あの金髪は、誰のものだ?

 あの白い肌は、誰のものだ?


 ――マリー。


「うつくしいだろう、リュリュ。

 この館の存在をはじめて聞いたとき、私は興奮で寝付けなかったものだ。きれいな女の子たちを、一晩だけでなく、買い取ることができる、秘密の館。買い取ったかぎりは、自由に、それこそ自由に”歓待”させることができる。そんなものがこの世にあるなんて、思わなかったからな」


 ふたたび、老人が合図を出す。

 火が灯る。

 あらわれたのは、マリー同様に変わり果てたシャルルの姿。


「いままで圧し殺してきた想いを、ここではぞんぶんに振るうことができる。全身全霊を込めて、神への愛を示すことができる」


 老人が合図を出す。

 火が灯る。

 あらわれたのは、無数のまがまがしい、拷問の道具たち。


 ――口ひげの男は、なんと言っていたか?


『彼らはまちがいなく生きてるよ』

『そう簡単に殺すほど、私たちが愚かに見えるかい?』


 確かに、そうだった。

 彼らはまちがいなく生きている。そう簡単には殺されない。死ぬすれすれのところまで傷つけられ、死ぬことも許されず、ただ延々と苦痛を与えられるために、生かされているのだから。


「……おぉして」


 リュリュの存在に気づいたのか、マリーだったものが、なにかを口にする。シャルルだったものも、同じように、くり返す。


「……ぉぉしてぇ……おぉして……おぇぁい……おぉして……」


 殺して。

 お願い、殺して。


「いやああああああああああああああっ!

 クロエーーーーー! クロエぇーーーーー!」


 リュリュは叫ぶ。

 恐慌に襲われて逃げようと走りはじめたとき、ランプを灯した黒服の男たちが近づいてくると、あっさりとリュリュを捕まえてしまった。両手両足を押さえられながらも身をよじりつづけたが、リュリュの体は寝台へと寝かされる。

 そして、両手両足に枷が嵌められた。


「見てごらん、リュリュ」


 老人は真珠の首飾りを示す。


「ひとりを捧げるたび、ひと粒の真珠を足してきた。いままでに十八人の少女たちが、それぞれのうつくしさを見せてくれた。どれをとってもいちばんすばらしい、魂と魂の対話だった」


 愛しいひとを撫でるような手つきで、老人は真珠たちを触っていく。


「私に残された時間はそう長くない。最後に、きみのようにうつくしい妖精と対話する機会に恵まれたことを、我が主に感謝せねば。

 ――さあ、”おしゃべり”を始めよう」


 老人が、舌なめずりをする。


「きみの体は、どんな話を聞かせてくれるのかな?」


 いやだいやだいやだ。

 クロエ。クロエ。

 たすけてクロエ。

 たすけ――


「――来ましたよ、うーりゅ」

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