第1の事件(8)
しばらくして、須和を呼ぶ声が耳に響いた。
「須和さん。着きましたよ」
茜の優しい声に須和は目を覚ました。
どうやら俺は、寝てしまったようだ。心の中でそう呟きながら須和は、眠たさで目をこすった。
「すみません。桜井警部補に運転していただいているのに……」
「構いませんよ。ところで、あの話はどうなりましたか?」
「あの話……ですか?」
須和は疑問の表情を浮かべ、まだ重くなっている目を茜に向けた。
「怨恨についての話ですよ。須和さんが、先程の会議室で話そうとしてたじゃないですか?」
その言葉にあぁ。と頷くと須和は茜に笑って答えた。
「桜井警部補が途中で止めたやつですね」
須和の返答に茜は即答で答え返した。
「その言い方はやめて下さい。あれは、そもそも須和さんが不用心すぎます。誰かに聞かれたらどうするんですか」
茜は須和の目を見ながら、少し説教じみた口調で伝えた。すみません。謝ると須和は、少し目を伏せた。
「それで、須和さんはどうお考えですか?」
「それを桜井警部補が聞くんですか?」
須和の言葉には、あなたなら分かってるんじゃないですか?そんな意味が含まれた問いかけだった。須和が投げかけた疑問に茜は少しきつめの口調で返答した。
「行きの車での台詞を、また言わせるつもりですか?」
須和は、間を空けて首を横に振り、いえ。と答えた。そして、須和は真面目な口調で先程の思考を茜に話し始めた。容疑者4人の話から、怨恨の線は低いという事。そしてそれに反し、金銭目的の可能性が高まったという事。それらの内容を伝えた後、須和は視線を茜から外し、前を向き直した。
「ここまでが、僕の考えです。」
「ありがとうございます。私の考えもほぼ同じです。一番の可能性があった花村さんには、昨日、藤乃さんと居たという、確固たるアリバイがあります。それに、資料の写真から、腕時計と現金が消えていたことから、金銭目的だと充分に考えられます。ただ、永山さんや小村さんについては、アリバイが不鮮明ですので、もう少し調べ次第、容疑者に加えるか検討する必要があります」
茜は自身の考えを須和に伝えると、目線を前に移し座席にもたれかかった。
「ただ捜査初日ですのであくまで推測です。明日の捜査会議や聞き込みで確証を得られれば良いのですが……」
「そうですね……。明日もよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします、須和さん」
須和と茜はお互いの考えを告げた後、シートベルトを外した。それに続いて車内には、暖房とエンジンの静まる音が静かに響き渡った。須和は車から降りると少し身震いをし、ドアを少し開けた状態で茜の方を覗き込んだ。須和が、喋るより先に茜が口を開いた。
「私はまだ少し残って、今回の件についてまとめたいので須和さんは先にお帰り下さい」
「いえ。それなら僕も残って……」
そう言いかけて、須和は言葉を詰まらせた。茜が須和に、力強い目線を送っているのに須和は気づいたからだった。
「それでは、僕は先に失礼します。お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
茜の返答に軽く会釈をすると、須和は駅に向かって歩き始めた。別段、茜が須和に送った視線の意味を理解した訳ではなかったが、食い下がるよりは諦めた方が生産的だと考えたのだ。須和は、慣れない2人行動に疲弊しており、1人の時間が欲しかった。それが彼の本音だった。
頬をかすむ風に肌寒さを感じ、ズボンに両手を突っ込んだ。須和は空を見上げ、1つ息を吐き出した。霞んだ白色越しには、散りばめられた星々が、澄んだ秋空に広がっていた。たが、その星空を眺めても、須和の心に高揚はみられなかった。不意に立ち止まった須和の目は、ただ一点を見つめていた。
須和の瞳には、夜空に据えられた月が写り込んでいた。
須和は、その月に見覚えがあった。この場合は、似ている月と言った方が正しいのかもしれない。
須和は再び歩き出し、記憶を辿り始めた。
20年前、空には半月の形をした月が、浮かんでいた。須和は、子どもながら昼間に浮かぶ不思議な月に心を踊らせていた。それは、母親に連れられ、県立の図書館を訪れた時のことだった。この図書館には当時、よく訪れていた。3階の奥の窓際の席。そこが須和にとってお気に入りの場所だった。木製の机に何冊かの本を並べ。日の光を浴びて、本を読み。そして疲れたら、空を眺める。その繰り返しが須和にとって、とても心地良かった。
須和幸助、小学2年生の出来事だった。
俺はあの日、いつも眺める空に、月が浮かんでいるのに気づいた。その頃の俺は無知で。月は、夜空にあるものだと思っていた。子どもながらに俺は、たくさんの考えを巡らせ、それに見入っていたのを覚えている。そして、俺の穏やかで密度の濃い時間は、非日常的な音によって壊されることとなった。当時のことを、はっきりと覚えているのはここまでだ。この後に起こったこと。それは、断片的な記憶でしか残っていない。なぜなら。俺の両親や警察が、子どもの俺に配慮して、事の顛末について詳しいことを教えようとしなかったからだ。そして俺自身も、忘れようとして、この出来事を忘れてしまったからだ。覚えているのは、一発の発砲音と、それを追うように大勢の悲鳴が響き渡ったこと。再び銃声が2回、今度は俺の近くで鳴り響いたこと。微かな鉄の匂いと、床を這う赤。それと同じものが俺の頬や服に纏わり付いたこと。その場で感じた、例えようのない恐怖。
そして……紺色の服を着た女性が俺に伝えた、「大丈夫だから」と言う言葉だけが、俺の目と耳に焼き付いている。
須和は再び月に目線を移した。
あの月は、何て言ったかな。上弦……いや、下弦の月って言ったかな。この月を見るとふとあの出来事を思い出す。そう言えば、あの女性はどこか桜井警部補に似ていた気がする。しっかりしているけど、どこか優しさがこもった声が……
その時、須和の手に振動が伝わってきた。不意に足を止め、須和はズボンから取り出すと、それに視線を移した。
その画面には、見覚えのある名前が表示されていた。




