第1の事件(6)
茜と須和は、女性と互いに挨拶を交わすと席に着いた。
「お名前を教えていただけますか?」
茜の台詞に、申し訳なさそうに女性は返答した。
「これは、失礼しました。花村詩織です」
花村は、そう言うと更に続けて柔らかく口を開いた。
「佐藤さんについてのお話ですよね。社長の清水から伺っております」
「そうですか。話が早くて助かります。では、質問をさせていただきます。佐藤さんとは、どの様な方でしたか?花村さんが感じた印象で結構です」
そう言うと茜は、真剣な眼差しを花村に送った。その視線は花村の一瞬の緊張を捉えたが、すぐに落ち着きを取り戻した。花村は、少し震えた声で薄いピンク色の口を動かした。
「私から見た佐藤さんは、昔はすごく優しい方でした。仕事のアドバイスはもちろんですが、ミスをしても一緒になって頭を下げてくれ、怒る時は本気で叱ってくれました、ですが……」
そこまで語ったところで声の調子が下がった様に2人は感じた。茜の目線は、黙って聞きながらも花村の方を見据えていた。
「もうご存知かと思いますが、佐藤さんは離婚を境に変わってしまいました。ミスを私や、他の部下の方のせいにしたり、前まであった愛情のある説教ではなく、ただ怒鳴り付けるだけになりました。時には、暴力さえ振るうこともありました」
茜は、その言葉を聞いて口を開いた。
「花村さんは……そこまでされながらどうして、清水さんに被害報告をしなかったんですか?他の方の話しでは、他の同僚の方が促して仕方なくと聞きましたが……」
「はい。その話に間違いはありません。私ごとで申し訳ないのですが。実を言うと、私も離婚経験があるんです……」
その言葉に、須和は言葉を書き留めながら少し目を見開き、考えた。
驚いた。花村は、俺と年齢が変わらない様に見えるが、すでに結婚と離婚を経験しているのか。だから、少なからず佐藤の気持ちを理解し気持ちを押し留める事ができたのかもしれない。
須和の考えは、当たっていた。花村が口にした言葉には、その理由が含まれていたからだ。
「私も、離婚したことを引きずっています。もう2年になりますが、嫌いになった訳ではありませんでした。私が働く事に理解を得られなかったからです。どう説明しても夫は納得してくれず、結局は離婚を選択しました。もちろん私も、その頃は仕事に集中できずミスが目立つ様になりました。でも……」
さっきとは打って変わって、花村の台詞は強く訴えかける様に茜と須和の耳に響いた。
「そんな私を佐藤さんは励まし、話しを聞いてくれました。仕事で失敗しても、私を見捨てませんでした。ですから……私も佐藤さんの気持ちはよく分かります。まだ好きな奥様と離婚する事になったのですから。なので、佐藤さんの事で上に報告することなんて、できませんでした……」
茜は、その台詞を聞いて花村に疑問を投げかけた。
「花村さんが、被害報告をできなかった理由は分かりました。では花村さんは、佐藤さんが奥様をまだ好きなことは、ご存知だったんですね」
少し、驚いた顔で茜の方を向いた。
「はい。離婚してからも腕時計をしていましたから。奥様を、どれだけ愛していたかが窺えました」
「腕時計ですか?それは、奥様からいただいたものですか?」
「そうです。ブランドとかはよく分からないですけど、高そうな時計でした。当初、佐藤さん自身も、高級な物だから大事にしたいって、嬉しそうに話していました」
その言葉を聞いて、ため息を1つしてから茜は口を開いた。
「分かりました。では、花村さんの昨日の行動を教えていただけますか?」
茜の台詞に可愛らしい表情が少し強張った。
「私を疑っているんですか?」
予想通りの返答に茜は、淡々と説明した。
「いえ。そうと決まった訳ではありません。申し訳ありませが、警察は疑うのが仕事ですから、ご理解いただけると助かります」
その言葉に花村は広角を緩め首を横に振った。
「いいえ。少し驚いただけですので気にしないでください」
「ありがとうございます。では、昨日の行動とその場所、具体的な時間をお話し願えますか?」
「分かりました。昨日は……」
花村は、次の言葉を発するのに間が空いた。そして、茜の目を見るとゆっくり話し始めた。
「昨日は、会社を21時に退社しました。今日、会議がありましたので、その準備をしてました。その後は、会社の同僚と夕食をとりました確か……21時に入店して、22時にはそこを出たと思います」
花村の台詞を聞いて茜は固く結ばれた口を緩めた。
「そのお店は何という名前ですか?後、よろしければ、同僚の方の名前も教えていただけますか?」
茜の質問に、花村が緊張して答えているのが須和には、分かった。
「分かりました。私が、夕食で立ち寄ったのは日和というお店です。その時、一緒だったのは藤乃美紀さんです」
「そうですか。ありがとうこざいます。では、話の続きをお願いします」
花村は、静かに頷くと再び口を開いた。
「分かりました。夕食を終えた後、藤乃さんと2人で22時15分の電車に乗って、沢山市の私の家に帰りました。家に着いたのは、23時ぐらいでした。帰る途中、近所のコンビニでお酒を買って帰りました。時間までは、覚えていません。その後、お酒を飲みながら会話や録画したドラマを見ました。時計を確認すると2時半を過ぎていたので就寝しました。それから、今朝は6時に起床し、6時半の電車に乗りました。出社したのは7時半でした」
茜は黙って聞き終えると再び質問をした。
「では、花村さんは退社から出社までの間、藤乃さんとずっとご一緒されていたと考えてもよろしいですか?」
「はい。その様に考えてもらって構いません」
「分かりました。では、最後の質問ですが佐藤さんが退社された時間はご存知ですか?」
「分かりません。私と藤乃さんが退社するころはまだ資料を作っていましたから」
「そうですか。ご協力いただきありがとうございました」
茜は立ち上がるとお礼を述べてお辞儀した。それに続いて、須和も同様に頭を下げた。それを見た、花村は慌てて立ち上がると、頭を下げた。花村は、2人に微笑みかけながら伝えた。
「いえ。ご丁寧にありがとうございます。一刻も早い事件の解決を願っています。では、失礼します」
そう言うと、黒い扉を開け退出した。須和は、静かに閉じられる扉を見ながら考えていた。
花村は、腕時計のことを言っていた。捜査資料で見た写真はどうだっただろうか……。腕に時計は……だめだ思い出せない。素人目にも高いと分かった物なら、犯人はそれを狙ったのだろうか。いや、それなら殺す必要は……。やはり、怨恨の線は捨てられない。それにしても花村は、桜井警部補に似ていたな……いや、所作や口調は似ていたが何か違う気がする。
須和は、違和感を抱えたまま重く閉ざされた扉を見つめていた。