第1の事件(1)
佐藤孝則は、電車に乗り帰宅していた。
佐藤は、ここらでは大手企業にあたる製薬会社に勤務しており、そこで38歳という若さで部長を務めていた。短く整えた髪ときつめの目つきから、少し怖い印象を受けるが、勤務態度は真面目な男性だ。
電車には、スーツ姿の就活生や、私服の学生、仕事帰りと思われる人達が乗っていた。予想より混んでいたので、佐藤はドアの近くに立ち、流れていく夜景を眺めることにした。だが、佐藤の心は穏やかではなかった。
うるさい。佐藤は電車に揺られながらそう思っていた。
学生が大きな笑い声を上げて喋っていたのだ。ネクタイを緩めながら、
迷惑だと思わないのかこいつらは。しかも、よりによってこんな日に。と佐藤は、考えながらいかにも怪訝そうな顔をし、軽く舌を鳴らした。
普段は、気にもかからないが、この日は、会社での不祥事の対処に、一日中追われていた。佐藤の疲弊しきった身体には、学生の笑い声は堪えるものがあった。さらに、その責任の一端が、部下にあるとなれば尚更だ。学生を睨みつけながら、
うるさいんだよ。他所でやってくれ。佐藤は、心の中で毒づくいていた。
その視線に気づいた学生は、声の調子を落として話し始めた。迷惑をかけたと気づいたのか、あるいは、佐藤に対する陰口なのかは分からなかった。だが、佐藤にとっては静かにしてくれさえいればそれで良かった。
しばらく電車に揺られ、佐藤は下車した。さっきまでの苛立ちと、電車の揺れから解放された佐藤は一つ深呼吸をし、歩き出した。
佐藤が足を運んだ先は、最近の行きつけになっている居酒屋「橘」だった。
「橘」は、少し入り組んだ路地裏にあり、木造の外観とオレンジ色の照明が合わさって古風な印象を感じさせる。小さな佇まいから、まさに知る人ぞ知る店だ。佐藤が引き戸を開けて入ると、
「いらっしゃい」
店長の大きな声が、他の声を割って店内に響いた。佐藤は、店内を見回した。店は、地元のおじさん達や、意外にも就活生と思わしき若者達で賑わっていた。
「ビールと枝豆、後……おでんの卵とだいこんをお願い」
そう伝えると、カウンターの入り口近くに座った。注文後、佐藤は頬づえをし、目線は携帯の画面に向けられていた。
「お子さんですか?」
店長が、机に注文の品を並べながら佐藤に聞いた。一瞬驚いて店長を見たが、すぐに目線を画面に戻し、
「ええまぁ。今日が誕生日なんですよ」
目を細め、少し恥ずかしそうに佐藤は答えた。いつもの怖い印象を受ける顔は、柔らかな表情を浮かべていた。しかし、その表情は寂しそうにも感じられた。
それから、佐藤と店長の会話は続いた。会話といっても佐藤の口から出るのは、ほとんどが愚痴だった。店長は、時々注文で忙しくしたが戻って来ては、佐藤の話に耳をかした。会社や、電車の学生についての出来事、そして1年前に離婚したことを話した。
「俺が、仕事を優先して家庭を大事にしなかったのがいけなかったんだ。だから、妻と子は出ていってしまったんですよ。その時は分からなかったけど今なら分かる気がする。ユイには、誕生日におめでとうさえ言えないなんて……」
頬を机に置き、うなだれる様に呟いた。その時の佐藤の目は少し濡れていた。
「奥さんとはその話をなさったんですか?」
「してないですよ」
店長からの問いに佐藤は首を振り、霞む声で呟いた。
「理由が、分かっているのならその気持ちを奥さんに伝えてみてはどうですか?今、あなたがどれだけ後悔しているのかを伝えれば、きっと戻って来てくれるんじゃないですかね。お子さんに会うためにも、頑張ってみたらどうですか?」
店長は、佐藤に優しい口調で声をかけた。
「ありがとございます」
真っ赤になった顔を緩めながら、佐藤はお礼を述べた。
「ところで……ユイと言うのは、お子さんの名前ですか?」
いつの間にか周りの客は居なくなっており、店内に店長の穏やかな声だけが響いた。
「そうです。優しいとにんべんに衣って書いて優依と読みます」
喋るのと並行して、手のひらに漢字を書いて見せ、店長に柔らかな笑顔を浮かべ話し始めた。
「優しいって漢字は、妻と絶対に入れたいね。誰にでも優しく、優れた子になって欲しいね。そんな話をしながら決めたんですよ」
嬉しそうには話していたが、店長に向けられた笑顔は、少し強張っていた。佐藤は、さらに続けて、
「依って、漢字にはですね、人に寄り添える人になって欲しいって願いがあるんですよ。名前の通りきっといい子になりますよ」
時々、鼻をすすりながら少し誇らしげに喋っていた。
「お子さんは、いくつなんですか?」
「今日で、8歳ですね。ランドセルも家族で買いに行って、かわいいのがいいね。いやいや、機能性だろう。なんて、そんなたわいない会話をしながら選びました。買ったランドセルを背負って、大きくなったね。て、言いながら写真を撮って。そしたら、優依が楽しそうに言うんです。早く、学校に行きたいな。友達いっぱい作るんだ。なんて、嬉しそうに笑って……」
店長が尋ねなくても、佐藤の口からどんどん言葉が発せられた。しかし、その声は次第に霞んでいった。佐藤の肩は静かに震え、頬には涙が流れ始めていた。
それから 数時間後、
「今日は、ありがとうございました」
コップの水を飲みほした後、 佐藤は店長にそう言うと居酒屋を後にし、おぼつかない足取りで自宅へと向かった。この時、時刻はすでに午前3時を回っていた。家の明かりは消え、街灯だけが佐藤を照らしていた。頭の中には、妻と娘との、幸せな光景が浮かんでいた。
その時、佐藤は革靴の音とは別の音が、足早に近づいて来るのに気がついた。佐藤が振り返るより先に、縄の様なものが巻かれ、首元が締めつけられた。
殺される。佐藤は瞬時に感じとった。
佐藤は、必死に抵抗し縄と首の間に爪を立て声を上げようとした。
やめろ。お前は誰だ。なんのつもりでこんなことを。そう告げようとしたが、呻き声になるだけだった。
お酒のせいで上手く力が入らない佐藤に反して、首元の縄はギリギリと音を立て、締めつける強さを増していった。
息が苦しい。俺はこのまま死ぬのか。力を入れながらもそのことが、佐藤の頭をよぎった。
縄が軋むにつれて、佐藤の呼吸が次第に浅くなり始める。佐藤の頭には疑問と後悔が浮かんだ。
意識が遠くなる……俺が何をしたっていうんだ。会社で部下を怒鳴ったからか?学生を睨みつけたからか?それとも、家庭を顧みなかったからか?ただ、最後に妻と会いたかったな。優依には、結局おめでとうと言えなかった……ごめんな。
佐藤の手が力なく垂れ下がり、そのままうつ伏せに倒れ込んだ。首元には、縄後が残り、爪後からはわずかだが血が流れていた。犯人は、口元を緩め、佐藤を見下ろしながら、何かを喋っていたが、佐藤の耳にはその言葉は届くことはなかった。
街灯に照らされた佐藤の頬には涙が伝い、寂しそうな笑顔を浮かべていた。