第1の事件(9)
捜査本部には、タイピングの音だけが響いていた。ドアの開く音が聞こえた後、男性が話しかけてきた。
「なんだ、まだいたのか。桜井。てっきり、電気を消し忘れたのかと思ったぞ」
男性は、桜井茜に笑いながら話しかけた。声のする方に茜は顔を向けると、同じ様に笑って返答した。
「お疲れ様です。黒川警部。今、捜査内容をまとめているところです。もう少ししたら、終わると思います」
「そうか。ところで……須和は、どうした?見当たらないようだが」
黒川の顔には、疑問の表情が浮かんでいた。
「須和さんは、先に帰りました」
茜の返答に黒川は、目を細めた。
「意外だな。須和の事だから、手伝おうとすると思ったのだが……」
「いえ。手伝おうとはしてくれました。ただ、私が断っただけですので」
黒川の顔つきが少し険しくなったのを茜は、感じ取った。
「そうなのか?それはまた何で?」
「何故かと聞かれると困りますが、1人で内容を整理したかったからです。それに……」
「それに?」
「いえ。何でありません」
茜の返答に少し間を空けて、今度は笑って黒川が質問を伝えた。
「須和の様子はどうだ?殺人事件を担当するのは久々だからな。須和は」
「はい。伺っております。須和さんは良くやってくれています。別段、緊張しているところも見られませんし」
そう伝えると茜は、黒川に笑顔を向け返した。
「なら、安心だ。桜井と組ませて正解だったかな?」
「はい。お任せ下さい」
黒川は笑って問いかけたが、茜の返答に少し間があった様に感じた。頑張れよ。そう言うと黒川は、退室した。
閉まりかけたドアに、向かって茜は、お疲れ様です。そう一言だけ伝えると、作業を再開した。
須和幸助は時折、入り口に視線を送りながら、手帳の予定表に目を通していた。須和はふと携帯に視線を向けた。画面には20:45の文字が表示されていた。須和が駅前のファミレスに来てから、1時間が経過しようとしていた。須和は、先ほど運ばれてきたブラックコーヒーに少しだけ口を付けた。その後、3度息を吹きかけると再び口に流し込んだ。この繰り返しは、須和にとってすでに3度目だった。
須和は右手で頬づえをしながら窓の外に目を向けた。外は様々な光が溢れ、それらと同様に、たくさんの人々がガラス越しに通り過ぎて行った。似ている人はいれど、やはりどこか違っていた。スーツを着ている人をとっても会社帰りと思われる人や、スーツケースを持った人、就活生と思われる人。男性や女性など実に様々だった。そんな人々をぼんやりと眺めていた目は、いつのまにか須和自身の姿に焦点を合わせていた。ガラスにはきっちりと着込まれたスーツと反対に、どこか疲れた表情が写り込んでいた。
何て顔してんだ俺は。たった1日で。やっぱり、殺人事件は慣れないな……。
須和は考えの途中で、前方で不意に聞こえた声に顔を上げた。
「よお、幸助。久しぶりだな」
須和の瞳は、1人の男性を見上げていた。
男性は席に着くと、須和に視線を返した。
「どうした?そんな疲れた顔して」
男性は、ニタニタしながら尋ねてきた。その台詞に少しきつめな口調で、須和は返答した。
「お前が、遅いからだろうが。疲れているのに、1時間も待たせやがって」
その返答に笑いながら、すまん。すまん。と答えた。そして男性は、真面目な顔で須和の方を向いた。
「それだけじゃないよな?」
予想外の質問に須和は、少し身構えたが冷静に返答した。
「ほんとにそれだけだよ」
「ならいいんだけどな。ところで、それうまいか?」
須和の前にあるコーヒーを指差して訪ねてきた。
「うまいぞ。すでに3杯飲んでる俺が言うんだから間違いない」
「ほんとかよ?お前、たまに味音痴だからな〜」
笑いながら、男性は須和と話を続けた。通りかかった店員に、前のコーヒーを指差しながら注文した。
「すみません。これと同じの下さい」
それを見て、慌てて須和もすでに緩くなったコーヒーを口に流し込んだ。
「自分には、おかわりをお願いします」
須和が差し出したカップを受け取ると、かしこまりました。そう言ってメモを終えた店員が立ち去った。
「ところで、味音痴とはどういう事だよ!」
「覚えてないのかよ?高校の文化祭の時食べた焼きそば、くそまずかったのにお前平気だっただろう?」
男性は、少し眉を下げて須和の方を向いた。須和はその台詞に少し考えてから答えた。
「いや、あれは俺が移動した時に、こっそり他のやつが焼きそばに辛子を入れたからだっただろ。それをお前が食ったから……」
「ほんとうかよ?」
再び、ニタニタした表情が男性の顔に浮かんだ。
「ほんとうや!というか……お前、知ってただろう!」
「そうだっけ?忘れた」
「都合の悪いことだけ忘れやがって。お前は」
「すまん。すまん……お前も」
お待たせしました。店員の言葉に男性が呟いた言葉はかき消された。2杯のコーヒーが2人の前に置かれた。店員に2人は軽く会釈をすると須和は、男性に尋ねた。
「今、何か言わなかったか?」
「いや。なんでもない」
男性は返答し、静かにコーヒーを啜った。
それから、2人は昔話に興じた。彼らが店から出たのはそれから30分後のことだった。男性は寄る所があると言ったので、店の前で須和と別れた。
須和は駅のホームで電車を待っていた。先ほどとは変わり、表情はどこか明るさを取り戻していた。ただ少し、気にかかることがあった。
あいつはあの時、すまん。と俺に謝った後、お前も忘れた方がいいぞ。そう呟いたように聞こえた。あれは、なんだったんだろうな……
その時、携帯が再び振動した。須和はそれに目線を移した。画面には、成瀬彰と表示されていた。
「もしもし。どうしたん?」
「いや、言うてなかったことがあったからな」
先程話していた男性の声が耳元で響いた。
「あんまり考え込むなよ。今日のお前、なんだかいつもより元気がなかったぞ」
灯が駅のホームにだんだんと近づき、明るさを増した。顔を照らす眩しさに須和は少し目を細めた。灯に遅れて、微かな風圧と大きな音が、耳に響き渡った。
「いつもよりって、久しぶりに会ったくせに何言うとんや、お前は。心配せんでええわ。でもま、ありがと」
「おう。また連絡するわ」
そう言うと成瀬は電話を切った。須和はズボンの中に携帯を戻すと、息を1つ吐き出した。
やっぱり。気づかれてたか。
須和は前を向き直すと、目の前に開かれた扉に足を踏み入れた。
22時過ぎ。玄関の扉を開けると、1匹のポメラニアンが待ち構えていた。さっきまで、扉越しに聞こえていた声より大きな声で彼は吠え、尾を左右に強く振った。それを見た桜井茜は、優しく彼に話しかけた。
「今、ご飯を用意するからね」
茜はもう1枚扉を開け、リビングに入り、明かりをつけた。茜の後ろを、フローリングをパタパタと音を立てて彼がついて来た。彼は、茜が皿にドッグフードを入れるのを見て、すかさず食いついた。カリカリと必死で食べる彼の姿を見た茜は、笑顔をこぼすと彼の背中を3回撫でた。
茜は寝室に入ると、着ていた上着を壁にかけ、シャツのボタンを1つ外し、髪を解いた。縛られていた髪は解放され、茜の首から肩にかけてを優しく撫で下ろした。茜はベットに倒れ込むと少しの間、目を閉じた。茜は仰向けに向き直り、窓の外に目をやった。茜の瞳には、あの月が写りこんだ。部屋の闇より明るい、外の闇の中に、その月は煌々と輝きを放っていた。
「私の嫌いな月だ」
そう呟いた茜は、手の甲で瞳を隠した。
私は……上手くやれているのかな……。成長できているのかな……教えて欲しい。
茜はいつの間にか、眠り込んでいた。2人の感情を他所に、その月は姿を隠した。そして、夜の闇は静かに明けていった。