レフンの描く現代の狂気
今、レフンの映画を見ている。「ドライブ」→「ブロンソン」→「オンリー・ゴッド」→「プッシャー」→「ブリーダー」まで見た。
レフンの映画を見ていると、彼がテーマとしているのは狂気だという事が分かる。どの作品にも一貫して、狂気を客観的に描くという立場が貫かれている。
僕はレフンの描く「狂気」は非常に現代的だし、的確な描き方をしていると思う。というのも、現代の人間は、因果関係のない狂気、因果関係のない暴力、そういうものが潜在的にあって、それをレフンは正確に描いている。
例えば、ドライブの主人公は根無し草である。「ドライブ」の主人公はどこからかやってきて、ふらりと当該の街に辿り着く。彼は昼間は修理工場で働いていて、夜には強盗の逃走ドライバーを務める。強盗犯の手伝いをするのは当然命をかける危険な行為だが、何故そんな事をするのか、レフンは描いていない。
ライアン・ゴズリング演じる主人公は序盤で人妻を好きになる。人妻ヒロインを守るために命をかけて、敵対する相手を何人も殺していくのだが、その殺意、暴力性も極めて突発的で、何の因果関係もない。
普通の物語の作り方では、作者が、「動機」を用意する。例えば、主人公が過去に虐待を受けていた、何らかの因縁が過去にあった、女を取られた、親友に裏切られた…など。しかし、「ドライブ」の主人公は全ての事を突発的に行う。彼は地に足をつけた生活をしていない。ふらりと街にやってきて、ふらりと女を好きになり、女のために命をかけ、残虐な行為も平気でする。全てが瞬間的、偶発的であり、ほんの偶発的な感情を主人公は絶対化して生きている。彼はその生き方を反省しない。彼は街にやってきて、修理工場では真面目に働く好青年なのだが、どこか感情が欠落している。この、好青年であると共にサイコであり、地に足をつけていない青年というのをレフンは的確に描いている。
レフンの他作品「ブリーダー」では、DV男が妻に暴力を振るうのだが、これもまた因果関係が示されない。DV男は妻に子供ができた事に急に腹を立て、(自分の人生が台無しにされた)と憤る。だが、どうして人生が台無しになるのかは描かれない。
こうした事は描かれないのではなく、意図して描いていないのだと僕は思う。こうした狂気は現代社会の根底に存在している。
僕達は現代に生きていて、無意識の内に過大なストレスを抱え込んでいる。これは何故なのか。社会学の本を読んでもなかなかわからない。
一つには、個人があまりに分化し、社会の中で小さな存在になってしまったという事が考えられる。個人の卑小さ、無力さはシステムの中では圧倒的になってしまった。システムを維持するために個人は、自分を捧げなければならないが、システムは個人を取り替え可能とする。「シフト」によって切り売りされた僕達の人生の時間はどこへ行くのか。
また、社会やシステムが巨大になった事によって、僕達の道徳観念が強まったという事もあると思う。かつてコカインは合法だったが、今はそうではなくなった。最近はタバコが問題視されている。人間が増えて、それぞれに自分の役割を守る度合いが増えると共に、個人を道徳観念で抑えつけなければならない。タバコの受動喫煙がその内、法律で禁止されるかもしれないが、それはタバコが「悪い」というより、むしろ僕達の集団性が膨れ上がった事により、集団維持のためには個人が、自分を制限する度合いが大きくなったという事ではないかと思う。
社会やシステムが巨大化し、それに伴い個人は分節化し、卑小なものになった。僕達は市民社会を成立させるためにルールを守って生きている。だがそのルールを守らなければならないという無意識の圧力こそが、ある時、急激な暴力性に転化する。そこにもはや個人的因果は必要ない。突発的に銃を取り出したり、ナイフを取り出したりするので十分だ。
レフンはそんな現代の狂気を描いている。久しぶりに、作家性の強い、良い映画監督に出会って非常に満足だった。もしレフンの映画を見たい人がいれば「ドライブ」がお勧めだ。「オンリー・ゴッド」も名作だと思うけれど、人を選ぶ作品だと思う。