Ⅱ
青年のいる客間を出て行ったあと、なにかあったようで、魔王はしばらく戻らないらしかった。粥を持ってきてくれたのは、愛らしいという形容の似合う少年だった。もちろん、魔族らしくその耳は尖っていたが。
蜜色の髪と濃金の瞳に、都でもてはやされる少女よりも整った顔立ち。まさしく天使のような容貌だった。彼は黒のベストとズボンを着て、そこそこの質の靴をはき、襟元には紅いリボンを結んであった。
どうやら声が出ないらしいというのには気づけたが、その代わりとでもいうように、表情が豊かな少年だった。
腕さえ動かない青年に、嫌な顔ひとつせず粥を食べさせて、ゆっくりではあったが完食すれば、にっこりと笑ってくれた。
魔族のはずだった。彼は紛うことなく魔族のはずだったが、青年が知る人間のなかでも、例外と呼べる人とおなじように、優しかった。ここは魔王の城で、自分は魔王討伐のために来たはずなのに、不思議なものだ、と青年はかすかに微笑する。
「…面倒だろうに、世話をありがとう。助かった」
青年がそう言えば、天使のような顔がにっこりと、ひどく嬉しそうに微笑んだ。右手が胸元に掲げられ、ぺこ、ときれいにその背が折れる。
大したことではない、と首を振るのではなく、こうして返礼されて、青年は今度こそ笑った。彼は性根のまっすぐな少年だった。
そんな少年は、くるりと部屋を見渡すと、すこし首をかしげて、それからひとつうなずいた。それから、ぺこりと一礼すると部屋を出ていく。
青年は王都にいたころ、軍であるていどの地位を賜っていた。
あれくらいの少年が軍に入ってくることは普通にあったから、青年はあの年代の少年との付き合いにも慣れている。上官、と慕ってくれる彼らは、良い部下だった。
部下のほとんどは、旅の前に置いてきた。
勅令が下ったと知り、なぜ貴方がそんな死地に行かねばならないのですかと、我が事以上に激怒してくれた。青年の行き先が死地であることくらい、魔王討伐の旅など死出の旅でしかないことくらい、誰もが知っていた。そんな旅であってもなお、お連れください、必ずや力になりますと言ってくれた、彼らのほとんどを置き去りに、身寄りも恋人もいない、それでいて腕の立つ者だけを連れて出た。
そうして、青年はたった一人になったのだ。
死なせてしまった彼らの顔を思い出し、青年は呻いて、目を閉じた。
どれくらい経ったのか、かちゃん、と音がして、ドアノブが動く。
目を開けて首を動かせば、ひょこり、と金色の髪が覗いていた。
「どうぞ。そんなに遠慮しなくていいんだよ」
ぴょい、と首から上が飛びだして、それから彼は部屋に入ってきた。彼が抱えていたのは、さほど大きくない花瓶がひとつ。もちろん、花が生けられていた。
「花?」
少年はててて、と歩いて、窓際に置かれたチェストのうえに花瓶を置いた。
いけられた花は、美しい色合いの、けれど見たことのないものがほとんどだった。
王都の上流階級に属していた青年さえ、見たことのない花。ピンときて、青年は確認をとった。
「もしかして、還らずの樹海の?」
こくり、と少年は笑顔でうなずいた。
青年は眉をよせた。ここ、魔王の城は、周囲のすべてを木々に囲まれている。
通称、還らずの樹海。
この森に道はなく、すこし深くなれば強力な魔物や荒くれの魔族と出会うことになるため、帰ったものはいないとさえ言われる森だ。時期によっては霧も深く、冬は雪に埋もれる日も多い。それもまた、生還率を下げている要因である。
青年はここを踏破して、この城にたどり着いた。ときには羅針盤が狂う場所であり、足元は生い茂る木々の幾重にもかさなる影で暗く、質のいい腐葉土が柔らかくて慣れない人間から体力を奪っていく。道もないから迷う危険も高い。
このくらいの年齢の少年が挑むには、あまりにも難易度が高すぎる場所だった。
事実、森の向こうにある村では、大人でも森の端にさえ近づかない。
「あそこは危ない。無茶をしてはいけないよ」
青年がそう言えば、少年はすこしきょとんとしたけれど、すぐにくすくすと声もなく笑った。
少年は右手を掲げると、ぴっと人さし指をたてる。
いきなり、ボッと炎がともった。
少年はくるくると指をまわし、炎を円形にしてみせると、それを水の玉に変えてしまった。その水の玉を浮かべたまま、つんつんとつつく。水の玉は妙な弾力をそなえていて、つついても壊れなかった。
そしてその水の玉は、またいきなりシャボン玉にかわり、そのままぱちんと消えてしまった。
「……問題ない、というわけか」
青年は苦笑した。たしかに、これだけの精度で魔法を扱えるのなら、還らずの樹海をすこしうろつくぶんには問題ないだろう。踏破しようとするのは、間違いなくまずいだろうが。
魔族には、やはり魔法を扱うのに長けた者が多い。少年もそのくちなのだろう。しかし、まだ十五にも届かないだろうに、この年齢でこの腕前とは、末恐ろしいものだった。
「気を遣ってくれてありがとう」
少年はやはり、“いいえ”というふうに首を振ったりはしなかった。ただ、微笑んで右手を胸元に掲げて、綺麗なお辞儀をする。
そういえば、なんだか既視感のある礼の仕方だが、どこで見たんだったのだろうか、と青年はすこし首をかしげた。特徴のある仕方だから、どこかで見たなら思い出せるはず、と青年は思ったが、無理に思い出さなくてもいいかと首を振った。
ああでも、そうだった。この少年は。
青年はそっと希望を声に乗せる。
「…………きみ、」
なんでしょうか?という言葉をそのまま動きに代えて、少年が首をかしげる。
「頭を、なでてもいいかな。軍部───俺がいたところには、君くらいの年の子がいっぱいいてね、よく頭をなでていたんだ。だから…」
ちょっとだけいいかな、と青年が問いかければ、少年は本当に嬉しそうに笑った。少年はぱたぱたと青年のそばまで駆けよって、さらに、腕の上がらない青年のためにしゃがみさえした。
青年は力の入らない腕をすこしだけ、ゆっくりと上げて、少年の蜜色の頭をそっとなでた。
「うん。あのくそガキどもより、君のがやわらかいな。……ありがとう」
いつも汗まみれ砂まみれの騎士の卵たちと違い、この少年は室内仕事が主だからだろう。ふわふわの髪だった。えへへ、と少年が笑う。
と、がちゃ、とドアノブが動いた。
カツ、と聞き覚えのある靴音。
「おや、もうそんなに仲良くなったのか、ベルンシュタイン卿。驚いた」
外套を揺らしながら、部屋に入ってきたのは、魔王。その背で、ゆるく三つ編みにされた髪が、振り子のように揺れている。
ヨアヒムがすこしあわてたように、頭から青年の手をはがしてシーツの上に戻した。
「その様子なら分かっているとは思うが、ヨアヒムは…その子は声が出ない。表情も豊かだから、なにを言いたいかはわりと伝わるけれどね。
なにか細かいことを言いたいときは、筆談するように言ってある。たまに筆記用具が手元にないと、手に指で書くから、そこも承知してくれ」
「承知しました。心遣い、ありがとうございます」
くすくすと魔王は笑って、うん、とひとつうなずいた。
「ヨアヒムには、たとえちょっとしたことにも、助けを求めるための声がない。気づいたときでいい、目をくばってやってほしい。よくできた、とてもいい子だから」
褒められたヨアヒムは嬉しそうに笑った。あんまり嬉しそうに笑うから、青年もすこし笑ってしまう。
「はい。短時間ですが、花を持ってきてくれるようないい子なのは分かりました」
「ヨアヒムはよっぽど君が気に入ったらしい!これならあの二人も大丈夫そうだな。よかった。
───まあともあれ、ヨアヒムには基本、君のそばにいてもらう。男同士の方が都合がいいだろう?この城に男は君たち二人しかいないから、交代はできないが」
「…そう、ですか。ありがとうございます……?」
青年は内心首をひねった。
青年は、自分を捕虜として認識していた。丁重な扱いを受けてはいるが、自分は捕虜の一種だと思っていたわけだ。
戦争において、捕虜を、とくにそこそこ位のありそうなものを捕虜にとるのは、わりと普通だからである。そして捕虜とは、生かしておかねば意味がない。
戦える力のある自分をこうして生かすのは、甚だ不思議なことではあったけれど、青年はそういうふうに納得していたのだ。
その自分にヨアヒムをつける。どうやら、魔王はヨアヒムを可愛がっているようで、そんな彼を自分につけるというのは不思議な話だった。
なにより驚きなのは、この城にはヨアヒムしか男がいないらしいことだった。けれど、魔王とヨアヒムが男女の仲であるようには見えず、また、魔王とヨアヒムに血縁がないのは火を見るよりも明らかだった。二人とも美しい顔立ちだが、完全に方向性が違う。
「変な顔だね、ベルンシュタイン卿」
「あ、いえ…すみません」
「別に謝らなくてもいい」
存外表情に出ていたらしく、青年が謝れば、魔王はくすくすと笑った。よく笑う魔王だ、と青年は思う。
「この城には、貴殿を含めても五人しかいないんだよ。ひとりは私。ひとりは貴殿。ひとりはヨアヒム。あと二人、女の子が働いているが、それだけだ」
「五人?!」
「ああ。私と、貴殿と、ヨアヒムと、ヘルガと、アルベルタ。それだけだよ。………この話はまた今度にしよう。あまり好きではないんだ」
魔王は目を伏せて、話を打ち切った。その頬に影を落としているのは、伏せられた黒い睫毛だけではなかった。
魔王にもなにかめんどうな事情があるらしい、とは、青年にもよくわかったのだった。
アルベルタとヘルガもまたちゃんと出てきます。
フリーダ…魔王はもうイラストを描いたんですが、アルベルタ、ヘルガ、ヨアヒムの三人がようやく描けるようになってきたので描きたいです。