表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

Ⅰ.

 水底からぽっかりと浮かびあがるように、青年は目を覚ました。

 身体が、さんざん水に潜ったあとのように重たかった。しかし、上質なリネンのシーツの感触はなめらかで、胸元までかけられたタオルケットはやわらかい。天井には美しい模様が彩色されている。

 一瞬、王都にある青年の実家にいる気がした。けれど、天井の模様はちがっているし、青年に対してこんな上質なベッドは提供されない。

 ここはどこだったろうかと、青年は目を瞬かせた。


 がちゃん、と扉が開く音がした。



「目が覚めたようだね」



 カツ、カツ、と、靴音がする。かたん、となにかを置く音がして、またカツ、カツ、と靴音がすこし。億劫ながらもそちらに首をまわして、青年はぴしりと凍りついた。



「ま、おう……」



 青年がかすれた声でつぶやけば、女はくすりと笑った。

 前に見たのは、どちらも黒の、Aラインドレスと膝丈のマントだったが、今日はこれまた、ドレープのかたちになった紗織りの布を幾重にも重ねた、やはりハイネックの黒のミニドレスに、おなじ膝丈のマントだった。華奢なハイヒールを履いて、ほっそりとした脚は靴下でおおわれている。

 あのときは気づかなかったが、落ち着いて見れば、ちいさな紅い石のピアスが両耳に短く吊るされていた。

 髪の隙間から、ちらちらとのぞく程度の控えめなものだ。なるほど、絶世とか、傾国とか形容するのが似つかわしいその美貌には、あまり五月蝿くならないこれくらいがふさわしいだろう。


 魔王だ、などとは信じられないほどの、一種の神秘を感じるほどのうつくしさ。



「いかにも、わたしが魔王だ。…しかし、名乗ったのだから、わたしを名前で呼ぶのが礼儀ではないかな?」

「…………」



 青年が気を失う直前、魔王はたしかに名乗っていた。ヴィクトリア・フリーダ・ヴァルプルギス、と。

 青年はきゅっと眉を寄せる。たしかに、名乗った相手を名前で呼ばないというのは、青年が教えられて育った礼儀には反していた。



「………ヴァルプルギスどの。お尋ねしたいことが、あります。よろしいですか」



 魔王はやはり、やわらかく笑っている。



「かまわないよ。それに、もうすこし砕けてもわたしは気にしない」

「いえ、私はこういうふうに育ったので。

 …では、お聞きしますが。何のつもりでこんなことをしたのですか」



 魔王がきょとんと首をかしげた。ぱちり、とひとつ、まつげが揺れる。



「なんのつもり、とは。わたしは言ったはずだよ、『殺風景なところだが、すこし休まれるがよろしかろう』と。その言葉を実行しただけだ」

「なぜ、私を殺さなないんです」

「貴殿を殺す意味なんてないじゃないか。

 それに、顔色の悪い人をそのままにしておくのは、わたしの信条に反する」



 青年は、調子が狂うとでもいわんばかりに顔をしかめた。

 魔王は素知らぬ顔で佇んでいる。

 目の前にいるのは自分を殺しにきた人間なのだと、本当にわかっているのだろうか、と青年は内心でため息さえついた。



「それから、あの剣だが。すまない、しばらくはこちらで預からせてもらう。わたしは別に返してもかまわないが、ここで働いているあの子たちが怖がってしまうから」

「敵の武器は取り上げる。当たり前でしょう」



 青年がそう言えば、魔王は苦笑した。



「まあ、とりあえず。貴殿が寝ていたあいだの話をしようか」



 このまま話を続けるのも無駄だと思ったのだろうか、魔王はそう言って話を変えた。



「ここに貴殿が来たのが、四日前の夕方。丸三日経って、いまで四日目だが、まだ朝だ。

 まだ新しい傷については、なるべく手当てをしておいた。が、ふさがりかけの傷はそうもいかなかったから放置した。全身にゆるく治癒術は施したけど、わりと適当だよ。あまり回復したわけではないから、無理はしないように」



 魔王はさらりとそんなことを言った。

 傷の手当てをしたと聞かされ、青年はようやく身体のところどころに巻かれた包帯に気がついた。傷は痛くもなければ、膿んだ様子もない。包帯も新しいものが巻かれているらしかった。

 青年は、二度、三度と瞬く。



「君が寝ていた三日間、水をなるべく含ませるようにはしていたが、さすがになにか食べさせるというわけにはいかなかった。あとで粥を持ってこよう、食べるといい」



 魔王はそう言うと、ろくに身体を動かせない青年の背中に手を差しいれ、上半身を起こさせると、背中にクッションを詰めてかるく固定した。


 そして、先にこれを、とサイドテーブルに置かれていたグラスを差し出す。

 薄い黄色の液体で満たされたグラス。よく冷えているようだが、氷は入っていないらしい。ほんのりと、甘酸っぱい香りが青年の鼻をつつく。

 魔王の手の甲には、魔族の証たる刻印。また、その魔力の高さを表すかのように、その爪は真っ黒に染まっている。



「林檎をしぼったんだよ。この森のこの時期は、林檎が美味しくてね」



 森。たしかに、魔王の城のまわりはことごとく木ばかりだった。

 いちばん近い街から、深い森を行くのだから馬は使えないと、完全な徒歩になったのは青年の記憶にも新しかった。

 林檎の木なんてあっただろうか。青年はすこし記憶をたぐったけれども、ただ魔王を倒すためだけに歩いた森のなかの景色など、ろくに覚えてはいなかった。



「…やはり毒が心配かな?」

「……………か…」

「か?」



 こてん、と魔王は首をかしげる。成熟した女のするには、それはすこし幼げなしぐさで、もしかしたら想像より若いのかもしれないと青年は思った。



「……構いません。…きちんとした部屋をあてがい、正しく手当てをし、丸三日以上も世話を焼き、そこで目覚めるのを待って毒殺など、手順がおかしいでしょう」

「うん、そうだよ。……君も、存外順応が早い」



 魔王は嬉しそうに笑って、グラスを青年の口元に近づけた。

 青年は飲まされるまえにグラスを受けとって自力で飲もうとしたが、腕が思うように動かない。青年が眉をしかめていると、魔王は笑み混じりに言った。



「まだ無理だよ。君の身体はまず、栄養が足りていない。三日間寝て、疲労はだいぶ回復しただろうけれど、食事を摂っていなかったわけだからね」

「…………」



 青年はきゅっと唇をひき結んだ。否定できなかったのだ。

 動かそうとした腕は、ろくにシーツから上がっていなかった。



「わたしがむさい男でなかっただけ、役得だとでも思うといい」

「………………お世話に、なります」

「うん。それでいい」



 魔王は微笑むとグラスを青年の唇につけて、そっと傾けていった。

 ちろちろと、林檎の果汁が青年の口に流しこまれていく。青年が飲みこむのに支障のないくらいの速度で、こぼれないようにそろそろと、魔王は器用にグラスを傾けた。

 グラスが空になると、魔王は青年の唇からグラスを離して、サイドテーブルに置いた。



「うん。しばらくしたら、もうすこし動けるだろう」



 魔王はやわらかく笑んで言った。

 青年はすこしばかり……いいや、かなり不思議な気持ちで魔王を見つめた。

 話に聞く魔王とは、こんなものだっただろうか?世界の闇のすべてをその身にあつめ、暴虐にして傲慢、血と権と財を好み、魔族を統べるものではなかったのだろうか。

 倒すべきかたきであり、まさに自分は魔王を倒さんと来たものだ。それが、何がどうなって、どうして魔王の城で、魔王に手ずから看病まがいのことをされているのだろうか──………?



「…わたしの顔は、なにか変だったかな。ああいや、やはりこの色彩は不気味だろうが」



 青年はぱちぱちと瞬きして、すこし微笑むと首を振った。



「いいえ。ヴァルプルギスどの、貴女はたいへん麗しい方と、私は思います。

 ただ、魔王とは、このようなものなのだろうか、と、つい。不躾でした、お許しください」



 青年がそう言えば、魔王はしばしおし黙り、そして生真面目な顔でぽつりと言った。



「髪と、目は、不気味ではないのかな」

「いえ、あまり。貴女らしく、お似合いかとは思いますが」



 青年はまた首を振った。ほんとうに、不気味ではなかった。

 黒とは、闇の色、冥府の色、魔王の色だ。人間の社会では、かなり忌避されている色である。

 しかし、この魔王がもし他の色をまとっていても、きっとしっくり来なかっただろう。黒がいい。黒がいちばん似合う。まだ顔をあわせるのは二回目だが、そう言い切れるだけのなにかが、魔王にはあった。

 それになにより、その姿はうつくしい。一種の神秘を感じるほど整った容姿は、もはや不気味さなど彼方に放り捨ててくれた。



「そうか。……そうか。ありがとう」



 ふふ、と魔王は嬉しそうに、かすかに懐かしげに笑った。

 青年もつられるようにかすかに微笑み、それからふいに真顔になって、ふと赤面した。



「どうした?」

「………いえ、名乗っていなかったな、と。ほんとうに申し訳ない」



 青年はまだベッドの上の動かない身体ながら、器用にすこし頭をさげてみせた。



「私の名は…、ジギスムント・カール・フォン・ベルンシュタイン。数々の無礼をお詫びします。申し訳ありませんでした」



 青年はいちど顔をあげる。魔王が驚いているらしいのを見て、にこ、と笑った。



「如何せんまだ身体が動かないのです。正式な礼はまた後日でも良いでしょうか?」



 魔王に向けて首をかしげて見せれば、魔王は曖昧にうなずいた。



「あ、ああ………。

 というか、なにもそこまで真面目にしなくても、わたしは気にしないんだが……」



 青年はまた首を振った。そういうことではないのだった。



「騎士のひとりとして、謝罪をさせていただきたいのです。…汲んでいただけますか?」



 今度こそ魔王は口をつぐんで、おとなしくひとつ頷いてみせた。青年はにこりと微笑んでまた頭を垂れた。



「感謝します、ヴァルプルギスどの。……私もそう、長居をするつもりはないし、帰ったなら二度とここへは来ない。

 厄介者でしょうが、この身体が動くまでは、世話になると思います。よろしくお願いします」



 青年は頭をあげた。魔王の居城で見るには、あまりにも晴れやかな、笑顔だった。

少々、文の形式を弄ってみました。慣れないのでしっくりきませんがいちばん読みやすかったのはこれかと思うのです…

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ