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バカ、バカ、バカ

 思いのほか順調に済んだスタジオセッションの後。七音はいつも通り、いやいつにも増して魂のこもった演奏と歌声。玲治もスパンを感じさせないドラミング。充足感、達成感。そんなものがふたりの心の中を支配している。そう言っても差支えない状況なのに、ふたりの心の中は全く違うもので満たされていた。喪失感、虚無感。結局、七音にとってはひとりでいたときと大差はない。隣に玲治がいるというのに、満たされない心を胸に抱えながらの帰宅となった。部屋のドアを開けるや否や、ふたりしてソファーに侍従に任せるようにして勢いよく腰かける。


「…疲れたな…今日は…」

「これくらい、いつものことよ」

「そういうお前も疲れた顔してるけどな」


 癖で言ってしまう強がりを笑われた。ほんのちょっと前なら、自分の強がりを笑い飛ばしてくれる人さえいなかった。独りぼっちだった。玲治のおかげで少しは孤独が紛れたものの、玲治だからこそ、もうひとり抜けている穴を感じずにはいられない。そしてそれを感じるたびに、この世界では杏奈に会えないという現実が胸に突き刺さる。


「…今日は寝床は別にするか……」

「そ、…そうね…」


 今朝、添い寝をしていたベッドを眺めながら玲治が言う。自分と玲治が同じベッドで寝ていた。思い出せば顔が少し紅くなってしまう。だがそんな呑気な七音とは裏腹に玲治は神妙な顔つきをしていた。彼は思い悩んでいたのだ。自分が下してしまったあの決断に。


「七音、お前にはこいつが見えるか?」


玲治が懐から取り出したのは、ナラクに渡されたあの拳銃。玲治が言うには、まだ違う人生を選ぶことができるらしい。


「…モデルガン…?玲治にそんな趣味あったっけ?」

「ナラクに渡されたものだ。確かにこいつから実弾は出ない」


その銃口をを自分のこめかみに突き付けて引き金を引けば、どういう原理かは分からないが、違う人生つまりは擬似的なパラレルワールドに行けるというものらしい。擬似的というのは、元の人生と意識や記憶が共通してしまっていることを指す。しかし、それでも運命を回避するには充分だということだ。


「…俺は、杏奈と逢えなくなる代わりに、杏奈が救われる人生を選んだ…。

 でも、もし、そのことに杏奈が苦しんでいるとすれば…。

 こんな形で救われることなんて、杏奈は望んでいなかったとしたら」


七音はその答えを知っていた。玲治も分かりきっていたはずだった。こんな形で救われることなんて、誰もが望んでいないということくらい。でも、それを否定すれば杏奈にふりかかる運命を避けられなくなってしまう。


「最初は、生きてさえいればそれで幸せになれると思っていた…

 でも、それは思い違いだった…」


(…やっぱり、そう考えるんだ…)


「お前も、そう思うだろ…?」


思ってはいる。思ってはいても七音は首を縦に振ることができなかった。きっと玲治は杏奈にふりかかる運命を避ける決断をする。とすれば、玲治が選ぶ違う人生とは…。七音はそれを勘付いてしまう。こういうときだけに女のカンが働くのが自分で憎い。


「玲治…あたしはさ…玲治を攻めないよ…。

 玲治がもとの人生に戻ることを選んでも…、だって…

 杏奈の病気のこと…玲治に原因があるわけじゃないし…ね…」




「…ごめん、…今、言ったことは…」


ぼそりと漏らすようにつぶやいて、七音はソファーからおもむろに立ち上がり、トイレに入り、便座のふたの上に座って重たい頭をかきむしる。


(ああ、自分はなんてことを言ってしまったんだ…。

 これじゃあまるで…あたし…、杏奈がいなくなることを喜んでるみたいだ…)


 恐らく自分の言葉は玲治にはそう伝わってはいないだろう。それでも、違う見方をすればそう取れてしまうことが腹立たしい。言葉が唇をついて出てくるたびに、思考が脳裏に湧いて出るたびに、自分が薄汚れていくのを感じる。幼いころは、好きという感情は綺麗なものだと思い込んでいた。だが、今の自分のそれは、綺麗と言えるだろうか。


(…汚い…、誰かを好きになることって…こんなに…罪深いことなんだ…)


自分に向かって手を払ってしっしっとやってしまいたくなるほどの嫌悪感が、七音の中に湧き起こる。ギシギシの金髪を頭皮ごとひっつかんで首を横に数度振り、耳を抑えて屈みこむ。


(あたしは…玲治を…好きになる資格なんてない…。ないのに…。

 そうだ…、あたしが好きなのは玲治じゃないんだ…。

 ただ、3人で楽しく過ごしていた過去が…恋しかっただけなんだ…)


呪文を唱えて、本当の自分の気持ちに目を背けて知らぬふり。その瞬間、脳裏をつんざくような銃声が轟いた。


「…玲治っ!」


思わず叫んで、ドアを開けるがもう世界は音を立てて崩れ始めていた。失敗してしまった折り紙をくしゃくしゃにするように、部屋を構成する線が歪んで捻じ曲がっていく。渦を巻いていく。その渦中に玲治は倒れていた。


「玲治っ!なんで…なんで、自分だけで決めちゃったのよ!

 あたしを…置いてかないでよ!」


精いっぱいに叫んだが、もちろん玲治の心には届かなかった。やがて、渦のまわりから世界は真っ黒に塗りつぶされて行き、七音の視界は闇に閉ざされた。まただ。また同じ夢の中だ。暗闇にそそり立つ運命の扉。その前には玲治の姿はいない。


「…あいつなら、扉の向こうに行ってしまったよ」


落胆するような声が、背後から聞こえる。ナラクの声だ。


「どうして……?、あたしのために生きたって、いいじゃない!

 なのに…なんで……、なんで……」


「…あたしの小細工も無意味だったよ。杏奈は強く玲治のことを求めてた…。

 どれだけ忘れさせても、杏奈の意志がそれを強く拒んだ。

 …あたしの力では、杏奈をあの世界に引き留めておくことはできなかった。

 だから、これでむしろ良かったのかもしれ…」


「そんなことないっ!」


ぼそぼそと喋るナラクの言葉の端を、七音の叫び声がへし折った。彼女の拳は固く握りしめられ、華奢な肩は震えている。


「…あなたが、運命を引っ掻き回したのよ!

 あなたがいなければ…いなけ…れば…」


そこまで言ったところで、全身の力が抜けるようにして膝から真っ黒な地面に落ちて突っ伏してしまう。


(…でもナラクがいないと…、杏奈は……。

 そして、この扉の向こうの世界は恐らく……)


「…もう、わかんないよ…どうすればいいのかなんて…

 …わかん…ないよ……」


上喉と舌の間をかろうじて掠り通って来たかのような声で力なく漏らす。




そこで夢は覚めてしまった。




 もともと寝起きはよくないが、それ以上の悪い寝覚めだった。運命と一緒に時間まで飛び越えてしまったのか、もう朝になっており窓の向こうで鳥がさえずる声がする。そして、視界には見慣れたいつも通りのひとりきりの部屋。玲治の姿はない。しばらく布団をかぶりながら物憂げな顔で、あらぬところをぼうっと眺めていると電話の着信音が鳴り響き、肩をびくつかせてしまう。電話の主を見るとともに、午前11時という、何ともずぼらな自分の起床時間を告げられる。


「…もしもし…、杏奈……」


電話の向こうの彼女の声は震えていた。七音はそこから、玲治が選んだ違う人生を悟った。


(…玲治は、結局…あたしのために生きることより、杏奈のために…)


「バカ……」


独りきりの部屋に床にひざを打つ音が木霊し、すすり泣く七音の声が反響する。


「…バカ……」


二回呟いた同じ言葉。


 ひとつは、自分を置いてしまった玲治への言葉。もうひとつは、泣いている自分への言葉だ。自分に泣く資格なんてないのに。もっと泣くべき人が、電話の向こう側にいるはずなのに。彼女は、自分とは対照的に泣いてなどいなかった。必死にこらえて泣いている自分を慰めてまでしてくれた。


(……、バカ……)



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