表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

もう忘れたくない/だから、あたしは駄目なんだ



「ほら、また難しい顔してる」


 倉菜に言われてハッとなり、杏奈は肩をびくんと跳ね上がらせる。考え事をしている最中に急に話しかけられるというのは、ちょうど居眠りをしている授業で、急に当てられるようなものだ。そして過剰な反応を笑われる。


「隠し事しないで。何でも話していいんだよ」


そうは言われても困る。杏奈にとっては疑問なのは目の前のこの世界全てと言っても過言ではない。自分という存在に違和感を感じている。五感を通して確かに自分だとわかるのに、なぜだかそれに馴染めないでいる。まるで偽物の人生を生きているかのような。そんな疑問をぶつけても笑われるか、気のせいだと言われるに決まっている。


「だ、大丈夫。何でもないから…」


倉菜を振り切るとともに自分の中で湧き上る疑問も抑え込む。明日で退院なのだから、その用意もしなければならない。それに倉菜は、杏奈がこの世界に懐疑的な感情を抱くことをあまりよしとしていないようなところを感じる。退院の知らせに怪訝な顔をしてしまったとき、なんとなくこちらを睨み付けているような視線を感じてしまった。


見間違いだろうか。


 そのとき一瞬だけ倉菜の瞳が血のように真っ赤に染まったのを見たのだ。ともかく、忘れよう。自分の中で湧き上る疑問も、そんなくだらない錯覚も。いそいそと退院の支度を始めると、どこか安堵したような顔を倉菜は浮かべる。親友が退院するとなれば安堵するのも頷けるが、どことなく倉菜の表情にはそれ以外の感情が含まれている気がする。


「あたしも手伝うよ」

「ありがとう」


「ゴミ捨てて来るね」

「あ、うん…」


 倉菜がゴミを捨ててくる間に病室を片付ける。そんなに所帯を広げてないので服をたたんで鞄に詰め込むか、あとは冷蔵庫の中を片付けておくかぐらいだ。ベッドから起き上がり、テレビ台の下にあるホテルのアメニティのような小型冷蔵庫を開ける。中にはミネラルウォーターが3本。飲みかけのものが1本と、未開封が2本。そして、見覚えのある食べかけのロールケーキがあった。ザラメでコーティングされたロールケーキが入ってある箱には、子供が描いたような可愛らしい丸字で「しゃとれ~ぜ」と記されている。羊羹やあんこ、白玉などを洋風のスイーツと組み合わせた和風ケーキ専門店らしい。


「う……」


 頭がくらくらする。なぜだかは分からない。途端に身体が重たく感じられ、壁に手を付いてうずくまる。そして走馬灯のように頭の中に映像が流れ込んで来た。


「…じ…、ちょっと見て見て。ほらほら」


頭の中で、かつて自分が出した声がする。見慣れた町の中を歩いている自分。入院する前に住んでいた町で、この病院からもバスに乗ればすぐに行ける場所。おしゃれなお店も沢山あるのに空気はおいしく自然豊かな、まさに心安らぐベッドタウンといった町だった。新開発でできた区画整理の行き届いた綺麗な町並みの一角に、一件のケーキ屋があった。まだ工事中で中には入れないようだが、看板が掲げてあったので店の名前だけは知ることができた。


「しゃとれ~ぜだって、和風ケーキ専門店…。

 …じ、ここおいしそうじゃない?」


自分の隣には、優しそうにほほ笑む男性の姿が見える。つないだ手には暖かい温もり。自分にとって大切な存在であるはずなのに、なぜだかその顔も名前も思い出せない。微笑む顔でさえ、口角の上がった口元しか思い浮かばない。そして記憶のフラッシュバックは浅い夢のように、泡となって溶けていった。現実の世界に舞い戻ると、まだ壁に手を当ててうずくまる自分がいる。


「あ、杏奈ちゃん? 大丈夫?」


顔を青くして倉菜が杏奈を見下ろしていた。ごみを捨てて帰ってきたところに、杏奈がうずくまっていたのだから容体が悪くなったのかと心配になったのだろう。


「ああ、大丈夫大丈夫。あたしちょっと、貧血持ちだから。

 急に立ったら立ちくらみしちゃって…」


 倉菜に要らぬ心配をかけさせないために、なんの問題もなく立ち上がってみせようとしたそのとき、運悪くテレビ台の上に置いてあった写真立てを手でこかしてしまう。ガラス製の写真立ては、床に落ちた衝撃で割れてしまい。挟んであった2枚の写真が飛び出してしまう。おかしな話だ。どう見ても1枚の写真しか飾れない写真立ての中に2枚の写真が入っていたのだから。要するに、常に一方の写真は隠されていたというわけだ。いったい何のために。


「だ、駄目っ!」


倉菜が叫んで杏奈の肩を引き留めようとしたときにはもう遅かった。写真立ての中に挟んであったのは、杏奈と倉菜が映った写真。そしてそれとまったく同じ位置取りで、杏奈とひとりの男性が写った写真。杏奈はその人物に見覚えがあった。そう、あのロールケーキを見たとき頭の中に流れ込んで来た映像の中で、自分が手をつないでいた男の人…。


「…、こ、この人は……、あたしの…」


「駄目っ!」


 頭の中で記憶を探ろうとしたときに、倉菜の制止が入る。彼女の肩はまるで激しい怒りを覚えているかのように、震えている。そして、黒かった瞳が再び真っ赤な色に染まっている。彼女は滑り込むようにして、床に屈みこみ、ガラスの破片が手の平に食い込んで血が出ようが構わないと言った具合に写真立ての残骸を片付け始めた。そのあまりにもの必死さに、杏奈は聞きださずにいれなかった。


「…倉菜…、本当はあなたが隠し事をしているんじゃないの?」


もともと震えていた肩がさらに、小刻みに揺れる。先程は怒りの感情が感じられたが、今度はなぜか恐れが読み取れる。知られてしまうことをひどく拒絶するような秘密を彼女が持っているということだ。


「…教えて、倉菜…あなたはいったい…」


そう尋ねると、半ば親友に向けるものではないような恐ろしい形相でこちらに振り返り、その真っ赤な瞳でえぐり取るように鋭いまなざしで睨み付けてきた。その瞬間、頭の中を見えない手でまさぐられているかのような感覚に襲われる。思考が、記憶がかき乱される。


「…忘れなさい…、あなたが見たことを全て…忘れなさい…」


 この感覚だ。今朝の寝覚めに感じた。自分の頭の中で見えない何かに、湧き上がって来た疑問や自分の記憶を握りつぶされる感覚。そして、そのときも倉菜は血のように赤い目をしていた。そう、倉菜が杏奈の記憶を、そして運命を操作していたのだ。だが、気づいたときにはもう、杏奈は再び床に倒れていた。


「……、杏奈…。もうあの男…、玲治には執着するな…。

 ふたりが逢えば運命が戻ってしまうんだよ…」


倉菜はそれをなんとしてでも避けたかった。彼女が修正した運命が、再び杏奈によって元に戻ってしまうことを。そうすれば、玲治の望んだ杏奈が救われるこの世界が壊れてしまう。危ないところだったが、これで再び修正は完了した、かに見えた。


 倒れふしたまま動かないように見えた杏奈の手がぴくりと動いたのだ。まさか、意識が戻ったのか。眉をしかめていると、杏奈は首を上げて、倉菜の瞳を真っ直ぐに見つめたではないか。もちろんぼんやりとした虚ろな眼差しではない。鋭く倉菜の胸を突き通すかのような眼光がその瞳には宿っていた。


「お願い……。小細工はやめて。もうあたしは、忘れたくなんかないの」



*****



 七音と玲治は山瀬の車の後部座席に乗っていた。山瀬は、七音のスケジュール調整とともに運転手も兼ねているらしい。七音は運転手に車でスタジオまで送り迎えしてもらうなど慣れたものだが、玲治にとっては慣れない経験だ。


「何そわそわしてんのよ」

「い…いや…、あまりこんな車乗せてもらったことないからさ」


車種はBMW。乗用車の中では割かし高級な部類で、少なくとも社会人2年目で貯金額も少ない玲治からすれば縁のない車だ。高級車ならではの、滑らかで安定した走りでスタジオに到着する。七音行きつけのスタジオで、管理人とも顔見知りだ。防音性の高い地下のスタジオに降りると、いつものサポートメンバーが揃っている。いつもと違うところといえばドラムの担当が玲治に変わってるところだ。


「…なんか、ドラムの前に玲治がいると学生時代思い出すなー」

「腕が落ちてなきゃいいがな」


「もともとそんなに上手くなかったけどね」

「相変わらず、口が減らないな…お前は……」


「あたしがスタジオとかライブハウスの予約で走り回ってるときは

 ずっと杏奈と練習してたんでしょ?」

「そうしないとこっちも大変だったからな…、だいたい曲の大半はお前が

 つくってたんだから、こっちはハンデありみたいなもんだよ」


学生時代を懐かしむような会話をするふたりをどこか怪訝な顔をしながら山瀬が見つめている。


「杏奈…学生時代の友達ですか…?」

「ああ、フリークエンシーズのメンバーで…あ…」


そこでふたりがいるこの世界では、杏奈はふたりと出会っていないということを思い出す。山瀬や他の皆が知るフリークエンシーズは、七音と玲治の二人編成なのだ。キーボードをしなやかな指で打ち鳴らす杏奈の姿は、七音と玲治の記憶の中にしか存在していないのだ。


「…フリークエンシーズは大学時代からずっと二人編成だと聞いていましたけど

 3人目がいたんですか?」


七音はどこか切なげな顔でこくりと頷く。杏奈が弾いていたキーボードは、七音のよく知るサポートメンバーの川平が担当している。玲治がドラムスティックを握る姿を見て、学生時代を思い出した七音だったが、この世界に七音が懐かしんでいた過去は存在しない。


 これ以上、そんなことを考えても無駄だ。七音はそう判断し、頭の中のスイッチを切り替えた。音楽のこと以外は一切なにも考えずに、ただ楽器からはじき出されて空間を漂う音色にだけ、感覚を研ぎ澄まして自らもひとつの楽器となる。最初は遅れがちだった玲治のドラミングも、七音の魂のこもった歌声とギターに掻き立てられるようにして本調子を取り戻してゆく。驚くほど順調にセッションは進み、玲治にとっては初対面のサポートメンバーばかりだったが、息の合った演奏をすることができた。曲のセットリストは、軽く腕ならしといった具合で、玲治も学生時代に必死になって練習した曲ばかりだった。それだけに容量も掴みやすいが、あの頃の記憶も蘇っていく。


「意外と順調じゃん、玲治」


3時間ぶっ通しで練習し続けたせいで、声がハスキーになってしまっている七音。休憩を挟まずにへとへとになるまでぶっ続けで演奏をするのは相変わらずだ。汗だくになって息が荒い。頭から浴びるようにしてミネラルウォーターを、喉をごくりごくりと鳴らしながら一気飲み。夜通しスタジオでセッションしていたこともあった学生時代、よく見た光景だ。


「自分でも驚いてるよ、まだ俺やれるんだなって…」


「調子乗ったらだめだよ、玲治以外は皆現役のプロなんだから」


悪戯っぽく微笑む七音だが、途端に切なげな顔つきになる。理由はわかりきっていた。玲治もそれを痛いほど感じていたからだ。


「…皮肉だな、杏奈が死ぬことがなくなっても…

 結局俺たちは、杏奈がいないことに苦しめられるんだ」


「…ねえ、玲治…」


七音がささやくような細い声を出す。聞こえてほしいのか、聞こえてほしくないのかよく分からないくらいの声量だ。華奢な身体のどこから出ているかと疑いたくなるような、とんでもない声量で歌う彼女には似合わないか細い声だ。


「…玲治はさ…、杏奈といたときは…あたしが離れていること…どう思って…」


それは、叶わない想いの告白だった。


「どうって…?」



(きっと、玲治にはあたしのことなんて見えていない。

 玲治さえ隣にいればそれでいいと思えれば…、こんなふうにずっと…

 玲治の隣でいれたかもしれない…。

 でもやっぱり、杏奈がいないと楽しくなかった…。

 なんて欲張りなあたし。だから…ダメなんだ…。)


(…だから、あたしは玲治のものに…なれなかったんだ。)



「うーうん、なんでもない…」



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ