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汚れた願い

 奇妙な目覚めだった。病室の様子は今まで見慣れていたものと何ら変わりはない。変わりはないはずなのにどこか違和感がある。なぜか2ヶ月と入院しているにも関わらず、全てが初めて見たかのように感じられてしまう。どことなく見慣れておらず、馴染みがない。同じようなことが、自分の見まいに来てくれた倉菜という女性についても言える。


「なんか、悪い夢でも見てたの?」


倉菜が言ったことは当たっている。悪い夢だ。もうどんなものかも記憶もあいまいだが、自分のよく知っている、大切な誰かがどこかに行ってしまうような夢。その人が誰なのか、頭の中の消しゴムによって消されていく。楽しい夢や怖いだけの夢なら、取るに足らないことなのに。杏奈は忘却という人の性を恨まずにいられなかった。


「怖い顔してるね」


眉間にしわが寄ってしまったのを倉菜に見られたようだ。


「ああ、ごめん…ちょっと考え事してたから」

「考え事って…?」


「隠さないでちゃんと教えてよ」

「ああ、大丈夫だよ…、本当にくだらないことだから」


 倉菜に聞き返されて戸惑いを覚える杏奈。そう言えば逆の立場になるが、似たような会話をしていた記憶がかすかにある。いつも笑ってくれた。でも病室に横たわる自分の姿を見て途端に難しい顔になって思考に耽ってしまう。隠し事でもあるのかと尋ねれば、今さっきの自分と同じようにはぐらかした。悔しいことに、それも誰だったかが思い出せないでいる。

 そして奇妙なことに、原形をとどめない記憶の残骸に限って、懐かしいにおいがした。今自分が触れている世界とも違って、自分の慣れ親しんできた愛着のようなものが感じられるのだ。だからこそ、思い出せない自分がもどかしくてたまらない。


「…そう…」


しばらく自分を恨みながら黙りこくっているとどうにか向こうが先に折れてくれたようだ。隠し事をしている自分に対してふくれっ面を向けてはいるものの、これ以上追及するのは野暮だと身を引いてくれた。そっと胸をなでおろすも間髪入れずに驚くべき言葉が倉菜の口から放たれることとなる。


「でも良かった。もう明日には退院できるって聞いて…」


 杏奈は自分の耳を疑った。自分が退院間近。そんな朗報が信じられなかった。ついこの前までの自分は漠然と自らの死期を悟っていた気持がする。外出許可以外で病院から出られるなんて考えもしていなかった。聞けば、杏奈が入院した理由は良性の腫瘍の摘出だそうだ転移前のがん組織で手術で摘出さえすれば完治の方向へ向かうと。

 ただ、その病状はやはり馴染みのないものだった。自分の中ではそんな一筋縄でいくような病状ではなかったような気がしていたのに。改めて鏡を見てみると、頬がこけて尖りすぎてしまった顔のラインが健康的な膨らみを取り戻している。だが、それもどこか見慣れない自分の顔だ。杏奈は自分が置かれた境遇に対し、まるで誰かが書き換えた人生を生きているかのような違和感を覚えていた。




*****




 ううと唸りながら瞼に感じた朝の光を感じて、目をゆっくりと開ける。まだ開けたばっかりで曇って霞んでしまっている視界に映るのは、見慣れない部屋。自分がさっきまでいたのは、自分で言うのもなんだが、女性らしさなどみじんも感じさせない殺風景なワンルームだった。だが、今視界に映るものはどうだろう。七音は上体を起こし、改めて周りを見回してみる。自分の好きなアーティストのCDやコード本が並んだ本棚や愛用のレスポールギターは相変わらずある。だが、ソファーやガラステーブルに大型液晶テレビなど自分が持っていなかった家具もちらほら。

 口をへの字に曲げて頭の中で疑問符を浮かべていると、膝にかかっていた自分の布団がするすると誰かに巻き取られていく。理解に苦しむ事態が起こった。自分は独り身のはずだ。自分の夢ばかり追いかけて、親友をほっぽいて独りで東京に行ってっしまうような薄情な自分。上京した先での、演奏仲間といまだにプライベートで付き合いがなく、一緒に飲んでも仕事上の関係という言葉が拭いきれないでいる付き合い下手な自分。そんなさえない自分に伴侶となり得る人物などいるはずもない。ましてや、同棲して添い寝する様な仲なんて。


これは夢だ。きっと何かの間違いだ。


 心の中で何度も何度も反芻して自分の頬をつねってみる。もちろんのことながら痛みを感じる。間違いなく現実だ。自分が生きている世界だ。そのうえで覚悟を決めて、背後を振り返る。添い寝の相手がいる方向だ。もしや、自分はその相手と肉体関係を持ったということになるのだろうか。添い寝しているような仲だ。それなりのことはしてしまっているかもしれない。無益な妄想で紅潮してしまった自分の間抜けな顔を向けると、そこには同じく間の抜けた顔で眠っている、自分のよく知っている男がいた。


「……、……。…玲…治……?」


驚嘆のあまり、その男の名前を口走ると、よりいっそう顔が紅く染まる。それとともに七音の声に気付いてしまった玲治が上体を勢いよく起こして大口を開けてあくびをしながら伸びをして、瞼をこする。そして、ふたりは互いの顔を見合わせる格好となった。


「えぇぇええええっ!」


互いに叫んでがばりとベッドから起き上がるふたり。ふたりして寝起きのぼさぼさの髪で荒い息を立てながら、見つめあって瞬きも何度もする様は非常に滑稽だ。


「な、なんでお前が…こんなところに…いるんだよ。七音!」

「あ、あたしだって!なんであんたみたいな

 冴えない男と添い寝しなきゃなんないのよ!

 触ってないでしょうね!あたしのカラダ!」


「誰がお前のけばけばしいカラダなんか触るかよ」

「あたしだって、あんたみたいな甲斐性なし、お断りよ!

 だいたい杏奈はどこに行ったのよ」


そこでふたりは互いの夢の中に現れた少女、ナラクに言われた言葉を思い出す。あの運命の扉をくぐる前に言われた言葉だ。


「…一つ約束してほしいことがある。その扉の向こうの世界では、絶対に

 杏奈に会ってはいけない…」


 人生というものは、ナラク曰くいくつもの縁によって構成されており、誰が誰と出会ったか、出会わなかったかでその後の運命まで決まってしまうものだということらしい。つまり、杏奈の生死だけに限って言えば、ふたりに会ったのが運の尽き。3人で楽しく過ごした学生生活こそ、杏奈に病魔を呼び寄せた元凶ということなのだ。それを回避したこの世界で杏奈に再び会えば、杏奈もしくは誰かの命が生贄に捧げられることになる。何とも皮肉な話、運命のいたずらとはよく言ったものだ。


「……、そっか……そうだよね…ごめん……」


 杏奈に会えないことが辛いのはふたりとも同じこと。そのことを蒸し返してしまったことを謝る。考えてみれば、この状況で誰よりも辛いのは、恋人である杏奈に会えなくなってしまった玲治のはずだ。にもかかわらず、玲治は七音を責めることなく「いいよ」と言ってくれた。七音はよく、玲治のことをぶっきらぼうな言動のことで叱責していたが、自分もたびたび心に余裕がない、焦りすぎだと玲治から言われていた。今の状況はまさにそれだ。それを思い出し、胸に手を当てて一息つくと、お腹がぎゅうと鳴った。


「……、……う……」


いくら気の置けない仲だとはいえ、流石にこれは恥ずかしい。こっちは赤面しているというのに、玲治はそんな自分を見て吹き出してしまっている。


「わ、笑わなくたっていーじゃん」

「いや…、子供みたいで忙しい奴だなって」

「馬鹿にしてるの?それ…」


 そして悪い癖がまた出てしまっている。無意味に意地を張ってしまう癖だ。本当は喧嘩なんてしたくないし、する理由などないというのに何故かきつい言葉を発してしまう。電話越しなら、そんなこともなく普通に話せるのに。玲治の言う通り、本当に自分は子供みたいだ。本当の気持ちがそうだからこそ、態度には裏目に出る。


(本当のことなんて、きっと玲治には言えないだろうから…)


「…もう、行っちゃうのか…?」

「…、う、うん」


 思い出すのは、上京の日。ふたりを置いて行ってしまった日のことだ。最初は見送りなんて頼むつもりはなかった。そういうしおらしいものは自分の性には合ってないから。そんなわけのわからない理由で遠慮していると普段は温厚な杏奈が、「親友なんだから、お見送りさせてよ」と強い口調で訴えかけてきた。結果、玲治と杏奈との3人で新幹線の駅のホームまで行くことになった。わざわざふたりは入場券まで買って、本当に新幹線の扉の目の前までついて来てくれた。 

 ありがとうとは伝えられたけど、本当は泣きたいくらい嬉しかった。そして、寂しかった。杏奈と別れることも、そして玲治に会えなくなることも。叶わないことくらい知っている。いつでも意地を張って自分が喧嘩の火種をつけてしまうから。


「寂しくなるな、もうお前とけんかできなくなるのか…」

「そんな、別れ際のセリフある?あたしだって、玲治のへたくそなドラム」

「はいはい、もうケンカしない」


「わかってるの?もうこの3人…

 揃うことなんてないかも知れないのよ。そのお別れのときまで、

 ケンカする必要ないでしょ…?」


 そのときも玲治のぶっきらぼうな一言に、七音がつっかかったことからいつものケンカが始まった。最後の別れかもしれないというのに。互いに大人になれないふたりを杏奈は優しく諭してくれた。

 杏奈のおかげで、最後のありがとうの言葉が言えた。杏奈に対しては、いつも姉御気取りで接してきたが、いつも杏奈のほうが何段も大人だった。もっと自分が杏奈に頼っていれば違った今があったかもしれない。七音は杏奈に対して見栄を張りたいがために、自らの運命の決定打となる言葉を送ってしまった。


「ありがとう、ふたりとも…、それじゃあふたり仲良くね」


 ホームから新幹線の中まで、重たいスーツケースを引きずっているとはいえ、本当に数歩の距離だ。そんな短い距離でさえ、途方もなく遠く感じた。でも、その遠い距離でさえ巨人の脚で歩くかのよう。新幹線に乗り、3人が会えなくなる瞬間は、あまりにも直ぐに訪れた。窓の外が動き出し、遠ざかるふたりに見えなくなるまで手を振り続ける。


言えなかった。本当の気持ちは、自分の行動とことごとく矛盾していたから。



*****



「何か作ろうか?」

「えっ…?」


 玲治の声で過去の追憶から引き戻される七音。玲治は、まだお腹を鳴らした自分のことを笑っている途中なのか。口角を上げている。一瞬、再びそっけない言葉を吐きそうになったが、彼の口から出てきたのは労いの言葉。


「あ、あんたが作った料理なんて…」

「お前よりはマシだよ」


ああ、またやってしまった。それに今回も玲治の言うとおりだ。自分に料理なんて作れるわけがない。七音は壊滅的に料理のセンスがなかったのだ。他のみんなが平均的にできるはずの家事全般がてんで駄目で、本当に音楽しかできない体質だった。まさに音楽バカというに相応しい。特に料理は、卵さえろくに割れないほど。


「杏奈が体壊したときはよく作ってたんだぜ。

 独り暮らしは自炊でやりくりしてたしな。というか、たまにお前食いに来てたろ?」


「…ぐ…、そ、そうね……」


ものぐさな上に、料理が作れない。おまけにお金をすぐに使ってしまって金欠になってしまう七音は、たまに玲治の部屋を食事つきの宿として利用していたこともあった。キッチンに立つ玲治、やけに手慣れた包丁さばき。あのころと変わらないどころか、よりいっそうこ慣れている様に見える。気が付けば太い指先の割に器用な手つきを、ただひたすらぼうっと眺めていた。ちょうど退屈な授業を聞き流しながら、教室の窓越しに校庭を眺めるように。


 玲治がこさえた食事は、玉ねぎとベーコンの入ったコンソメスープと目玉焼き。そしてフレンチトーストだ。自分ではトーストをトースターで焼くのがやっとというのに。玲治はその何倍もの技術を要する料理をいとも簡単にやってのける。なんだか自分の女としての出来の悪さを思い知らされているようで七音はげんなりとしてしまう。


「どうしたんだ?食べないのか?お腹鳴らしていたのはお前だろ?」

「…う、うるさいわね…た、食べればいいんでしょ…」


しっとりと柔らかく焼かれたフレンチトーストはひとたび口の中に入れれば、蜂蜜の甘味とバターの香りと濃厚なうまみが舌の上で溶け出す。そこから噛めば、バターが一気にパン生地からあふれ出すとともに、卵の香りと混ざり合って口の中で協奏する。


「お、おいしい……」

「だろ…?」


思わずそうつぶやいてしまうと、玲治が得意げに応えたため、七音は途端に不機嫌になってしまう。理由などない、単なる条件反射のようなものだ。


「なんだよ、その顔は」

「…別に……」


パブロフの犬は、ベルが鳴ると餌がもらえると思って唾液を出すらしいが、今の自分の強がりはそれ以下だ。玲治の前でずっと意地を張り続けてきたから、素直になれずに言動を尖らせてしまう。そんなことで得られるものも守られるものも何もないというのは、わかりきった話なのに。こんな自分だから、ふたりを応援してあげることしかできなかった。心の中でため息をつくと、訪れた静寂をつんざくようにして電話が入る。七音が仕事用に使っていた携帯電話に着信が入った。電話とメールでしか使わないために、いまどきスマートフォンではなく、所謂ガラパゴスケータイというものだ。


 電話に出ると、仕事のスケジュール管理をしてもらっているマネージャーの山瀬の声がする。今晩に控えたスタジオ練習と明日に控えたライブの打ち合わせの件だという。だが七音にはそのどちらにも心当たりがなかった。そんな日程を立てた覚えはないのだが、ものぐさな自分はスケジュール管理をすべて山瀬に任せていたため、疲れて忘れているんだろうと頭の中で押し殺した。だが、ここでもうひとつ山瀬の口から新しい事実が伝えられることになる。


「次のライブはフリーケンシーズのデビュー2周年記念なんですから、絶対に

 最高のライブにしましょうね」


フリーケンシーズ。懐かしい響きだ。大学時代の軽音部で玲治と七音、そして杏奈の3人で組んでいたバンドの名前だ。本当に懐かしい。最初は、玲治と七音のふたりだったところに、七音が無理矢理杏奈を引き連れて来たのだった。


「…玲治、今晩はフリーケンシーズのスタジオ練習だって」


電話を終えた七音が玲治にそれを伝えると、玲治は驚きのあまり口の中に入れたコーヒーを噴き出してしまう。玲治はもうドラムをやめて5年も経つのだ。急に入ったスタジオ練習に思わず怖気づいてしまうのも無理はない。


「フ、フリーケンシーズって、俺らが学生時代にやっていたバンドじゃないか」


おまけにフリーケンシーズは玲治が知る限りでは、大学生活の終わり、七音の上京とともに解散したバンドだ。それが活動を続けているどころか、メジャーデビューを果たして2年も経っているというのだ。


「じゃあ、この世界では……」

「あたしと玲治が音楽活動を続けて、メジャーデビューまで成し遂げちゃったってことね」


 七音は頬を紅くして、口角を上げながら嬉々として話す。そして窓にかかっていたレースカーテンを開くと、玲治にとっては見慣れない、そして七音にとっては見慣れた街並みが広がっている。薄汚れたビルがひしめき合った、決してお世辞にもいいとは言えない街並みだが、七音にとってはそれが馴染み深かった。


「ここら辺はバブル時代に建てられた雑居ビルがそのまんま残ってて

 建物は古い代わりに家賃が安いんだよ」


「…なんか、お前嬉しそうだな」


「…えっ……」


本心を言い当てられたような気分になって、七音は自分の中で時が止まってしまう。攻められているような気分に駆られるのだ。悔しいことに、どこかで羨んでいた人生が今自分の目の前にあるのだ。自分が自ら切り捨ててしまった可能性が。不意にナラクに言われた言葉が、七音の頭の中をよぎる。昨日の夢ではない。もっと昔の、七音がナラクと初めて夢の中で会った時の会話だ。


「こうは思ったことはないか?違う人生があればと…」

「…何が言いたいの…?」


「お前はどこか心残りなはずだ、独りで上京したあの時、

 新幹線に乗ったあの日…。たしかに、歌手になりたいという夢を

 追いかける気持ちは嘘ではなかったが…

 どこかで思ってたはずだ。

 追いかけてほしかった。あるいは引き留めてほしかったと」


「…やめてよ、あたしはそんな汚い女じゃない……

 それに、今までの人生をなかったことにしてまで欲しいものなんてないよ

 あたしは、玲治や杏奈のこと…裏切りたくないから…」


なんという強がりだ。結局自分は、ナラクが言った違う人生を喜んでしまっている。この世界では杏奈と玲治と自分の3人の思い出はなかったことになっていて、玲治の隣に杏奈がいたところが自分に置き換わってしまっている。それを喜んでしまっているなんて。



(…なんて、あたしは汚い女なんだろう……)



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