第十三話 タオル
「くっ!!」
横井が持つ包丁は、とっさに横に逸れた私のすぐそばを通り過ぎて行った。危なかった、あと少し気づくのが遅れていたら、私に包丁が刺さっていた。
催涙スプレーを構えながら後ろに何歩か下がって距離を取る。落ち着いて横井を見てみると、目や鼻から涙と鼻水が出ていた。しかし目に痛みを感じている様子はない。
どうやらガスを発射した距離が遠かったのと、横井がとっさに顔を腕で覆ったため、あまり催涙ガスを吸わせることが出来なかったようだ。
これはまずい。横井は包丁を持っている上にこちらの手を知られてしまった。警察が来るまであと五分。持ちこたえられるだろうか。
「黛先輩、一応申し上げておきますが、私があなたの命を守るために動くということはございません。あくまで私はあなたの行動を見届けるためにここにいるのでございます……ひひ」
閂が私に忠告する。この状況だともはや聞きなれたはずの小さな笑い声が妙に腹立たしい。しかし今はそんなことを考えている場合ではない。なんとか横井を止め、『彼女』を守らないと。
「あ、あんた、何でここに!?」
顔を液体でグシャグシャにした横井が、赤い目で私を睨み付ける。どうやら私が来ることは完全に想定外だったらしい。
「アンタのやろうとすることなんて御見通しってこと。大人しく諦めれば狂言ってことにしてあげてもいいけど?」
この状況で横井を挑発するような言動は危険だと頭ではわかっていた。しかし、『彼女』に危害を加えようとする横井がどうにも腹立たしかったので、ついこのような言葉になってしまった。私がそれを後悔したときにはもう遅かった。
「あんたは……どこまでもバカにして!」
激怒した横井が再度向かってくる。落ち着け、一年前の『あの時』に比べればこんなやつは大した相手ではない。こういう場合は退いたらまずい。避けてもまずい。ならば……
「……ほう!」
後ろから閂の感嘆するような声が聞こえた。そう、私はあえて突っ込んでくる横井に向かっていったのだ。
「え……」
その行動も横井は予想していなかったのか、一瞬動きを止めて怯む。その隙を私は見逃さなかった。
「やあああっ!」
そして横井の顔に至近距離で思い切りスプレーを吹き付けた。
「きゃあああああああっ!!」
今度は真っ向から催涙ガスを喰らった横井は包丁を取り落として顔を押さえ、その場に蹲った。
「あああっ! 痛い、痛いいいいいっ!」
催涙ガスによる目や鼻の痛みに耐えかね、地面でバタバタと悶えている。……どうやら、もう大丈夫なようだ。
「……」
だが、その時。
「……!」
私は横井の落とした包丁を思わず見てしまった。
「ひひひ……まだですよ黛先輩。まだ終わってはいません」
私と横井が戦っている間は距離を取って事態を見守っていたらしい閂が、再び私に近づいて囁く。
「先輩はまだ『決断』をしてはいらっしゃらない。さあ、お選びください」
そして左目を閉じ、髪の隙間からわずかに見える右目を目一杯見開きながら、言う。
「『あの人』のために、ご自分の手を汚すかどうか」
閂のその姿は、相手に有無を言わさないとてつもない圧力を持っていた。
私は思う、この状況で『選ばない』ということは出来ない。閂はそれを言っている。
ならばどうする? 横井をこのまま放っておくか、それとも……
二度と『彼女』に手出しできないようにするか。
……?
二度と『彼女』に手出しできないようにする?
私は改めて、地面で悶えている横井を見る。
その姿はどことなく、いつもより小さく見えた。それはなぜだろうか。こいつを攻撃してもまるで反撃される心配は無いという安心感だろうか。
そこまで考えて気づく。横井が今置かれている状況は、『彼女』が常日頃望んでいる状況だということに。
絶対に助からない、絶望的な状況だということに。
……なんだこれ。これが『彼女』の望む状況? こんなものを『彼女』は望んでいるの?
残念だけれど、全く楽しくない。
こんなやつを一方的に殺しても、私は全く楽しさなんて覚えない。『彼女』は今の横井のような状況を楽しむのだろうが、私は全く楽しくない。
……なら、私が取るべき選択は決まっているじゃないか。
この状況に楽しさを覚えられない私が、『彼女』の興味を引けるわけがない。『彼女』が求める存在になれるわけがない。
つまり、横井を殺しても全くの無駄に終わるということだ。
「……閂」
「なんでしょう?」
「アンタの提示した『提案』、却下するわ」
「ほう……ではこのままご自分の手を汚すことなく、『あの人』を独占することなくお過ごしになると……」
「いいえ、それは違う」
「はい?」
「私は、『彼女』のために自分の手を汚すことはする」
そう宣言すると、私は蹲っている横井の髪を掴んで引っ張った。
「い、痛い! やめて!」
顔を上げた横井を見ると、先ほど以上に涙を流して見るに堪えない顔になっている。ああ、バカみたい。こんなやつを殺そうか迷っていたなんて。
「ねえ」
「な、なに……」
「私は『彼女』の求める存在とは違う。人を殺すことなんてしない。その場でそう誓うわ」
「え……」
「でもね、『彼女』に今度手を出そうものなら……」
「ひっ!」
そして、横井の顔面をアスファルトの地面スレスレで止める。
「顔面を削り取るくらいはするから、そのつもりでね?」
「あ、は、はいぃ……」
私の言葉を聞いた横井は完全に抵抗を止め、全身から力が抜ける。その姿を見て、私は確信した。
ああそうだ。これだ、これだったんだ。私が求めていたのはこれだったんだ。
私が『彼女』を救うにはその望みを完全に潰さなければならない。徹底的に『彼女』にとっての汚れ役を担わなければならない。『彼女』と敵対しなければならない。
だけど、例えそうなっても私は『彼女』と共に過ごしたかったんだ。なら、そのために何をするか?
そう、『彼女』を徹底的に打ちのめして敗北させる。今の横井のように。
そうだ、私は『彼女』の敵になるんだ。そして『彼女』を救うんだ。それが私の選択。
やはり私は、『彼女』のために自分の手を汚すことを選んだ。
「ひ、ひひ、ひひひひひひひひひひ!!!」
その時、いつもより大きな閂の笑い声が聞こえた。振り返ると閂はまだ右目を見開いている。
「ああ、素晴らしいですよ黛先輩、あなたこそ、あなたこそ真の『友情』を持った素晴らしき……」
「もういいわ」
「ひ?」
「アンタの芝居はもういいって言っているのよ。あんたの目的は真の『友情』を見たいなんてものではない。そうでしょ?」
「……ひひひ、なぜそうだと?」
「今の私の選択が真の『友情』なんて綺麗なものではないなんてことは一目瞭然。それなのにアンタは私の行動を褒め称えた。なら、アンタの言葉は嘘で、その目的は別にある。ごく自然な理屈だわ」
「ひひ、ひひひひ……」
ここでようやく、閂は髪で右目を隠し元通りに左目を開いた。そしてポケットから小さなタオルを取り出し、横井の頭に乗せる。
「……いいでしょう、ならば私の本当の目的を」
「興味ないわ」
「おや、そうですか?」
「アンタが何を考えていようと興味はない。ただ一つ言えるのは、今後も私や『彼女』にちょっかいを出そうと言うのなら……ただじゃおかない」
「ひひひひ……」
私の言葉に少しも怯まない閂は、横井の顔をタオルで拭きながら答える。
「ならば、しばらくは先輩の前から姿を消しましょう。ですがまた、私はあなたの前に現れます、まだ確認できていないものですから……」
「……後悔しなければいいけどね」
「ひひ、ひひひひひ……」
――――その後。
駆け付けた警察には、予定通り私と閂が証言して横井は補導された。
怪我人がいなかったのと未成年だったことから、横井はすぐに解放されたようだが、学校を停学にはなったようだ。
そして閂は、言葉通り私の前に現れることは無くなった。おかげで私はしばらくは『彼女』と共に過ごしながら受験に専念出来た。
だが、このままでは終わらないだろうとは思っていた。そしてその予感が的中したとわかるのは、この出来事から数か月後のことだった……
第二章 完




