第十二話 ニット
九月末とはいえ、夜はもう寒い。にもかかわらず、私は夜の九時という時間に『彼女』のアパートの前にある裏通りで身を潜めている。
理由は一つ。横井による『彼女』への襲撃を阻止するためだ。
「……どうやら、緊張なさっているようですね」
私のすぐ後ろで閂が囁く。明かりがほとんどない場所ではこいつの黒髪と黒い制服は闇に溶け込み、代わりにその白い肌をより青白いものに見せていた。
「流石の黛先輩と言えども、やはり平常心ではいられないのですか? ひひひ……」
「……何が可笑しいの?」
「いえいえ、この笑いに特に意味はございません。もちろん、先輩を嘲るつもりもありません。ですが、意外とは思いました。先輩ともあろう御方がこれほどまでに緊張なさるとは……」
「……」
確かに、閂の言うとおりだ。
私の手はカタカタと震え、口の中に苦い味が広がっている。さらに地に足がついている感覚が薄く、それでいてじっとしてはいられないような奇妙な感覚が私を襲っていた。
言うまでもない、緊張しているのだ。
……これから、人を殺すのかもしれないのだから。
今日の昼休みに起こった、横井との口論。
横井が今日でなくとも、近いうちに『彼女』を襲うのは間違いなかった。その理由も、私への逆恨みであるということはわかった。
しかし、疑問はあった。それだけで『彼女』に危害を加えようとするものだろうか。それだけの理由で犯罪者になるリスクを冒そうとするだろうか。
だとしても、その疑問を突き止める余裕はないだろう。今の横井と、まともな話し合いが成り立つとは思えない。
「どうやら、今夜の主役がご到着のようですね……」
そう考えているうちに、閂が私に再び囁いた。アパートの前を見ると、黒い服にニット帽を被った人物が『彼女』の部屋を見ている。その人物の体格は私とそう変わらない。
間違いない、横井だ。やはり今日、『彼女』を襲いに現れた。
問題はここからだ。ここから私がどう動くか。
ここで下手に横井に声をかければヤツを刺激するかもしれない。そうなれば『彼女』だけでなく私も危ない。しかし、まだ何もしていない横井にいきなり私が持っている催涙スプレーを吹き付けるわけにはいかなかった。そんなことをしてしまえば、私の方が警察に問い詰められる。
ならばここで警察に通報するか? しかし今から警察に連絡しても、すぐにここに到着するわけではない。その間に横井が『彼女』を襲ってしまったら、どちらにしろ対決は避けられない。そうなると……
「閂、もしものことがあったら警察に証言するって言ってたわよね?」
「はい、そのつもりでございます……覚悟をお決めになったのですか?」
「いいえ。アンタには私と横井がもみ合いになったら警察に通報してもらうわ」
「ひひひ、いいでしょう……ですが、決断はお早めにされるべきだとは思いますよ……?」
「私は自分で行動を決める。アンタの指図は受けない」
「これは失敬。ですが私としても、先輩がご自分で決心されることを望んでいるのですよ……」
「……!」
閂と話している間に、横井が行動を起こした。『彼女』の部屋のインターホンを押そうとしている。
そして左手には、背中に隠すように鋭い包丁が握られていた。
ま、まずい! ヤツは『彼女』が出てきた直後に襲いかかるつもりだ!
考えているヒマは無かった。私は身を潜めていた場所から飛び出すと、そのまま一気に横井のいる場所に突っ込んでいった。
「えっ!?」
私の足音に横井が反応する。どうやら私がここにいることは完全に想定外だったようで、固まったまま動かない。
そのまま素早く、その目にめがけて催涙スプレーを発射した。
「きゃあっ!」
包丁を持っていたため至近距離では発射できなかったが、横井は腕で顔を押さえて怯んだ。その間に私は包丁を奪い取ろうとする。
「うわああああっ!」
「っ!!」
しかしパニックになったのか、横井は腕で顔を押さえたままもう片方の手に持った包丁をがむしゃらに振り回した。これでは取り押さえられない。
だがこれで警察に通報する理由は出来た。
「閂!」
「ええ、わかっております」
私の後ろで状況を見ていた閂は携帯電話を取り出し、警察に連絡する。
よし、おそらく五分もあれば警察は来るだろう。何とかその時間を稼げば……
だが、その時。
「え……」
包丁を握りしめた横井がまっすぐこちらに向かってきているのが見えた。




