イバラノヒメ
部屋の明かりをつけてない薄暗い部屋の中、煌々と光るPCモニタ。
タブレットの上を滑るペンの音だけが響く。
たまにポゥと赤い灯りが点り、深い吐息と共に紫煙が吐き出される。
ふと、傍らに置いたスマホの画面を見やると、時間は零時過ぎを示していた。
古い住宅街の一角、この時間だと辺りは随分と静けさを取り戻す。
夜の支配率が上がれば上がるほど、仕事の作業効率が上がるのが私…だったが、どうにもノれない。
さっきからペンは動かすものの描いては消し、描いては消しの繰り返しだ。
今回のカットの締め切りまで、まだ数日あるとは言え、スッキリしないことには違いなく、ただタバコの本数だけが増えていく。
(…零時過ぎたか)
私はPCデスクから離れると、壁掛けのカレンダーの昨日の日付である”14”を×と書いて消した。
今月のカレンダーは一日からずっと日付の数字が×で消されている。
ピンポーン。
突然、玄関のチャイムが鳴った。
こんな時間に来客…思い当たるのは一人しかいない。
私は灰皿に押し付けてタバコの火を消し、部屋の灯りをつけた。
冷蔵庫を開けて、グレープフルーツジュースと氷のチェックをする。100%のグレープフルーツジュースのパックのストックが二本、氷は自動製氷の皿にたっぷりとあった。
ピンポーン。
もう一度、少し遠慮がちにチャイムが鳴る。
(はいはい、分かってるってば)
パタパタと、はやる気持ちを代弁する足音が外にいるあのコに聞こえるんじゃないか? そんな心配をしてしまうほど、気分が高揚しているのが自分でも分かる。
絵が描けなくて陰鬱としていた気持ちなんてどこかに吹き飛んでしまっていた。
玄関のドアの前で深呼吸をし、気持ちと表情を整えた。出来るだけ、クールに見えるように。
「誰? こんな時間に…」
「…むっちゃん。来ちゃった…アハハ」
案の定、ドアの向こうには申し訳無さそうに頭を掻きながらはにかむ葉月が居た。
頬が朱に染まってるのは照れているだけじゃなく、酔っているからだろう。その証拠に葉月からはかなりのアルコール臭がする。
「来ちゃった…じゃないわよ、もう」
私はやれやれといった素振りを見せつつ、葉月を迎え入れた。
「また、弱いのにそんなに飲んで…」
「あー、冷たーい! 美味しーい! むっちゃん、さすが、大親友! 分かってるねー。この、このぉー」
葉月は私が差し出したグレープフルーツジュースを受け取ると、一気に飲み干した。
「それで、今度はどんな男の話し?」
空になったコップにグレープフルーツジュースを注ぎ、テーブルに置きながら私は聞いた。
葉月がこんな時間に酒臭い息を吐きながら私のところを尋ねてくるのは、決まってオトコ絡みだ。
二週間ぶりに訪れたのだし、さぞや報告したいことが溜まっているに違いない。
「えー、なんで? なんでそう思うの?」
「分かるわよ。何年の付き合いだと思ってるのよ」
葉月とは小学校に入学してからの付き合いだ。もうかれこれ十四、五年になる。
それだけの時間、私は葉月を見続けてきたのだ。分からないハズがない。
「さすがだよー、むっちゃんはやっぱりアタシのこと分かってるよねー…」
葉月はコップの中の氷をカランと鳴らし、深くため息をついた。
私は答えを急かず、葉月の次の言葉を待った。
本当は態度から次に葉月が何と言うかは、ほぼ分かっている。
だけど、私は彼女の口から聞きたいのだ。
「…また、フられちゃった…ハハハ…」
照れ笑いとも苦笑ともつかないような微妙な表情を浮かべつつ、葉月は私が予想し、そして、望んだ言葉を吐いた。
私は葉月の頭を胸に抱え込むようにして、ぎゅっと抱きしめた。
「葉月…」
「むっちゃん…むっちゃぁん」
葉月は私の名前を呼びながら私の胸に顔をうずめた。
「………アタシ、今度は…上手くいくって、長く続けようって…思ってたのになぁっ」
葉月の嗚咽を聞きながら、私は黙って優しく葉月の髪を撫でる。
彼の趣味なんだ♪なんて言いながらセミロングまで伸ばした髪。
私はショートの方が似合うと思ってたけど、その時は似合うよなんて心にも無いことを言ってしまった。
葉月がこんなに傷つくのなら、男に合わせて自分を変えるなんて、と非難すべきだったのだろうか…。
…いや、ムリだな、私には。
彼の為の行為を楽しげに興じている葉月に、何と言えばいいのか。
私の想いなんて、葉月にはただの邪魔でしかないだろう。
あくまでも”大親友”、”女友達”でしかないのだから。
「葉月…、もし良かったら、何日でも泊まっていっていいんだよ。ずっと、ずっと一緒にいるから…」
「うん…うん…あり…が…と…むっちゃ…ん………」
すーすーと寝息を立て始めた葉月をソファに寝かせ、タオルケットをかけてやる。
部屋の灯りもPCも消した室内はカーテンの隙間から射す月光だけの薄暗がりとなった。
私は、葉月の傍に腰を下ろした。
葉月の淡いピンクに染まった頬をそっと指の背で撫でる。
葉月が起きる気配は無かった。
私は、ありったけの想いを乗せ、頬にキスした。
(この世の全てのオトコがこのコの前から消えますように)
「あれ? 今日締め切りだった? ごめんね、押しかけたりして…」
私が壁掛けのカレンダーの”15”を丸で囲んでいるところを見たのだろう、ソファーから半身起こした葉月が申し訳無さそうに言った。
「起きたのね、葉月。二日酔いはどう?」
私は、カレンダーの丸のことは敢えて無視して、葉月に尋ねる。
「グレープフルーツジュースのおかげでだいぶマシだけど、しんどいー」
「…だと思った。しじみのお味噌汁を作ってあるわよ、飲む?」
「飲む、飲むー♪」
「はぁ…染みるわー」
お味噌汁を一口すすり、葉月はしんみりと漏らした。
「何よ、それ。年寄りくさいわね」
「飲んで帰ってきても、こんなのを作ってもらえるんだから、むっちゃんの彼氏になる人は幸せだよねぇ」
「彼氏なんて要らない」
私は即答した。
「えー、勿体無いなぁ。むっちゃん、頼りがいあるしかっこいいのになー。そりゃ新進気鋭のイラストレーター睦月先生としては、今はオトコなんかよりシゴトなんだろうけど…」
「ただの素人に毛が生えただけの新人よ。先生って呼ばれるほどのことはないわ」
今は売り出しの為に多少スケジュール的にムリをしてでも、色々と引き受けているから、確かに仕事以外の時間はほとんどない。
だけど、もしそれがなくても、答えは変わらない。
「アタシは彼氏欲しいな、ひとりじゃ寂しいし…。ずっとずっと長く一緒に居られるような人が欲しいの。死ぬまで一緒に居てくれるような…」
お味噌汁を飲み干した葉月は、ごちそうさまと手を合わせる。
「そんなこと言って、また『フられちゃったー』て泣きついてくるんでしょ」
「あー、そんな意地悪言わないでよぅ。でも、ホント、むっちゃんみたいにずっと傍に居てくれる人がいれば最高なのになぁ…。もし、そんな人が出来たら、絶対にむっちゃんに紹介するからね、その時にはお祝いしてよね♪」
「そうねぇ…」
葉月のお気軽な未来予想を聞きながら、私は空になったお椀を纏め、シンクへと運ぶ。これなら私の表情は葉月からは見えないハズだ。
(そうよ、私は…私ならずっと葉月の傍に居てあげられる。ずっとずっと…永遠の眠りについた後もずっと…)
きっと今の私はひどい顔をしてる。
大事な人の幸せを願えないような…、私はそんなひどい人間だから。
「ねぇ、ねぇ、むっちゃんってばー」
返答しない私に、背後から追い討ちが掛かった。
葉月の言葉がイバラのように絡まり、私を締め付ける。胸が苦しい。
私は、どうしても二の句が継げなかった。