幕間・ルーン=フィン=エルファース論文集
ルーンが本編中で書いた論文を纏めてみました
1.魔法に関する論文
まず最初に、この文章はある程度上位の魔法に触れたことのある人向けに書かれた物である事を断っておきます。私の表現力はそれほど高くは無いんです。ごめんなさい。
ミリア=コーデリアは魔法粒子論(※1)を用いて現実に魔法が存在しうる事を説明しました。
実際、この理論以前には現実に魔法を持ち込む物は一つもありませんでしたし、その事は非常に評価するべきです。ですが、あの理論は魔法を現実に近づけているというよりはどちらかというと現実を魔法に近づけている、という方があっているように私は思います。実際、魔法粒子が現実に存在すると仮定した時点で、現実と魔法を同一の次元に置いている、と捉えている人も何人かはいます。
さて、あなたがもしも上位の、現実の価値を希薄にするほどに魔法側に近づいてしまうような魔法を使った経験をお持ちの方なら理解できるでしょうが魔法側からこちらに魔法を引きずり出す時に何か壁のようなものの気配を感じた事があるはずです。前述の魔法粒子論ならばこのことはこう説明されています。
『魔法が発現するためには粒子が質量を持つ必要がありますね。そこで、術者の意思を受けた魔法粒子は空間内で質量を発生させる、と定義します』
確かにこれならばただの風が恐るべき破壊力を生むことも簡単に説明できてしまいます。この考えは意志の力を水のようなもの、魔法粒子をタオルのようなもの、と考えれば理解しやすいと私は思います。ところがです。魔法は壁にぶつかって、それを超える事が出来ずに消滅してしまう事もまたあり得るのです。ここで一つ矛盾が生じます。再び魔法粒子論からの引用になりますが
『魔法粒子は自らの質量に耐え切れなくなると枯れ、他の粒子から魔力を分けてもらう
事によって再生する』とあります。
つまり強力すぎる意志の力は魔法を消滅させてしまう、ということです。ならば何故魔法が人間の意志を殺す事が出来るのでしょうか。一応は『魔法粒子が意思を無尽蔵に吸う為』という説明があるにはありますが、魔法の誘惑とでも言うべきあの恐怖や全てと同一になるような感覚については全く説明がなされていません。私が言いたいのはただ一つです。あの理論は魔法の根源を全く無視しています。魔法そのものを現象としてしか捉えていないのです。魔法は人間に理解できる次元を遥かに超越したものです。それを人間が感じる事の出来る範囲の現象で現そうとすることがそもそも不可能なのです。
ですが我々が魔法を使うためにはそれなりに魔法を理解する必要があります。理解無
しでは魔法に負けてしまいますからね。
あなたは魔法を使う際に幾つかの要素、つまり炎とか水を混ぜ合わせて何か他のものを作り出していませんか、もしくはそうは感じられませんか。もしもそう感じた事が一度も無いのであればこの先は無視して下さって構いません。
炎とか水とかは我々のいる側の現象です。魔法のある側の現象とは違うはずです。私は魔法側の、現実で言うところの炎と似た現象を炎として認識しているに過ぎないと思います。それでは、魔法側の現象は実際は何なのか私なりに考察してみようと思います。
まずは現実と魔法との境界線を「ルーン・フォビト」とよぶ事にします。これは我々の側の感覚では線のように見えますが魔法側では決して通り抜ける事が出来ないような何かに見えます。
魔法側にも現実と同じく様々な現象が飛び交っています。例えば重力のようなものもあるかもしれませんし、星のような輝きもあるかもしれません。しかしそれらの一つ一つに私なりの考えを述べていたのでは時間がいくらあっても足りません。魔法側における現象の根源についてのみ考察するべきである事は容易に理解してくれると思います。 根源といってもその意味は人によって様々だと思います。私が意味するところの現実における根源とは『空間』『生命』『海』『大空』の四つです。例え物が存在していたとしてもそれがあるべき場所が無ければ無意味だと思います。
では魔法はどうなのでしょう。あれは別に空間無しでも存在しています。ルーン・フォビトの向こう側の話ですが。それにあれにあるものは生命とはまた違うと思います。海無しで生き物が暮らすことは出来ませんが勿論魔法は違います。大空を見なければ我々は意味を見失うでしょうが魔法はそれそのものが意味です。
私なりに一生懸命考えた結果、まだまだ不足してはいますがとりあえず四つの要素を思いつきました。この要素を『ルーン』とよぶ事にします。
まず一つ目は『本のルーン』です。
本のルーン。ここでいう本とは魔法にとっての生命のようなもの、と考えて下さい。これは無限に生まれますがその事は後で説明します。これは大きさの関係でもっともルーン・フォビトを超えにくいです。
二つ目は『思い出のルーン』です。 我々は思い出を魔法側に持ち込むことが出来ます。術者のイメージ次第で魔法が変化するのはそのためだとここでは考えてください。このルーンは魔法を現実に持ち出す際に絶対に必要です。魔法の現実での姿を決定するのはこのルーンです。
三つ目は『色のルーン』です。
魔法にだって色はついています。魔法は無限に変化しつづけるという性質上、色はとても重要な役割を果たします。無限と有限を結ぶのが色なのです。無限の中ではそれぞれの識別は困難です。だからこそ色を持つのです。ゆえに無限は色によって有限となるのです。
四つ目は『線のルーン』です。
線が形を作る元なのは現実での話です。ルーン・フォビトの向こう側では線は魔法を刻むために存在します。そうです、この線のルーンが本のルーンに文字を刻み、無限の物語を生み出すのです。
以上で魔法に関する私なりの見解の発表を終えます。意見・反論のある方は私宛に手紙をくれるなり何なりして下さい。不在の際はツヴァイク室長に伝えてもらえると嬉しいです。
by ルーン=フィン=エルファース(ルーテクス大学・魔法研究科所属)
※1:魔法粒子という人間の精神力に反応する質量の無い粒子が空間内に存在していて
精神力を受けて魔法を発現するという理論。1237年ミリア=コーデリア。
2.名前に関する論文
全ての物事には名前があります。言語を物質的な側面から捉える際にこの名前という概念はとても重要な物になります。物事の一つ一つ個別に与えられた形容詞、それが名前だと考えても恐らく問題はないでしょう。この場合は。例えば鉄。鉄という物質は『硬い』とか『冷たい』といった性質を秘めています。もしかしたら私たちが気づいていない性質も隠し持っているのかもしれませんが、それらも含めた全てが『鉄』という単語の中に詰め込まれてしまっています。この性質を示すのが形容詞としての名前です。
形容詞としての名前、と今私は書きましたが、ここで私が論じたいのはその種の名前ではありません。少し考えてみてください。『名前』という単語そのものに名前があります。『名前』という名前が。これは一体どういうことでしょうか。少々論理が飛躍してしまいましたね。要は逆に名前が物事の性質を決定しているのではないのか、ということです。先ほど鉄を例に挙げましたが、冷たくて硬いから鉄なのか、鉄だから冷たくて硬いのか、どちらなのか皆さんは分かりますか?少なくとも私にはわかりません。前者を私は形容詞としての名前と呼ぶことにしました。後者は性質としての名前、とでも呼ぶことにしましょう。
そして物事は名前を二種類もっているから一つに定まるのです。ちょうど二つの点を結ぶ直線は一つしかないように。
しかし私たちは極稀に物の名を間違えてしまいます。その場合は何が起こるのでしょうか?前回、魔法について論じた時に、魔法の姿は思い出によって決定すると述べました。仮に名前を間違えたとしても思い出の中にある物事の姿は変化しません。つまり間違えた名前を用いている最中は、その名が別の物に移り変わっているのでは無いでしょうか。砕いた言い方をすれば勘違いですが、とにかく私たちの中にある何かが名前を一定の物に保ってしまっているのです。その何かが何であるのかを論じるのはまた別の機会に譲ります。新しい概念を一度に複数導入するのは避けるべきです。
名前を変えても性質は変わらないことが分かりました。ではその逆はどうでしょう。同じく変化しないのでしょうか?天気は同じ天気でも曇り、とか晴れとかいろいろと種類があります。それらは分けて考えるのならもちろん全くの別物です。しかし天気全体ではどうでしょうか。晴れていようと雨が降っていようと天気は天気です。しかしその天気の内面は変化しています。どうやら性質のほうが変化しても全体では名前は変化しないようです。
いよいよよく分からなくなってきました。だとすれば私たちは間違った名前を故意に与えようとしても、最終的には必ず正しい名前にたどり着かれてしまいます。私たちは決して嘘を吐き通せないようです。私たちは何も知らないふりをしているだけで本当は全ての物事の本質を知っているようです(説明可能かどうかは別ですが)。私たちは自らを無知だと信じて知を求め学びつづけてきました。ここルーテクス大学の図書館の蔵書がその証です。果たしてそれは無意味だったのでしょうか?
私たち自身にもそれが正解かどうかは別にして名前はあります。その名前は両親から与えられた物だったり、あるいは祖父母、または名付け親から与えられた物だったりいろいろです。そして人は必ずその名前の通りに成長します。現に私の最も親しい友人がそうです。私には親が居ません。本当は居るのでしょうがどんなに思い出そうとしても思い出せません。私の名前は誰が付けてくれた物なのでしょうか。私の本質を見抜いてこの名を与えてくれたのは一体誰なのでしょうか。私は最初から知っていました。しかしそんなはずは無いのです。自分を自分だけで見つけることは不可能なのですから。プラナには感謝しています。ありがとう。
BYルーン=フィン=エルファース
3.混沌に関する論文
つい最近気づいたのですが私は議論を行う際にある仮定をしていました。その仮定とは『現実が存在する』ということです。それは当たり前のことに感じられるかもしれませんが、以前書いた魔法に関する論文で魔法と現実を分割して魔法の存在を定義したのだから現実は存在しなければあの論文は成り立ちません。そしてそれは仮定に過ぎないのです。では現実が実在するのかどうか考えて見ましょう。私たちは生きています。でも本当にそうでしょうか。生きていると思い込んでいるだけで実際は死んでいるのかもしれません(賢い読者の皆様ならお気づきだと思いますがもちろんその逆を考えることも出来ます)。私たちはこの世に生を受けました。でもそれは真実でしょうか。歴史にそう刻まれているし、存在しているから真実である、と簡単に結論付けることは出来ません。歴史など好きなように解釈できます。事実の記録ではありますが、それ自体が現実が存在するという仮定がなければ解釈不能です。存在している事だって、そう思い込んでいるだけで違う可能性もあります。例えば小説を読めば登場人物の気持ちになりきり、彼らが実在するかのように感じることが出来ますがもちろん彼ら登場人物たちは実在しません。したがって私たちがある物語の中に存在していて作者の意のままに操られている可能性だってありうるのです。
この私の考えだって実在すると証明できません。そう考えている私が実在するからこれを書いている、と思った方もいるかもいるかもしれませんが、逆に問います。あなたは自分自身が何者なのかわかりますか。答えられるとしたら、その答えは間違っています。名前に関する論文に書いたとおり物事の性質―人間を含む―はそのものの名前に由来します。しかしそれで決定する性質は私たち全員が全く同じものではないのです。複数の人がいて全員が同じことを考えているなんて事態が起きたとしたら、ここルーテクスは存在意義を失います。
では仮定が正しいことを証明するにはどうしたら良いのでしょうか。残念ながらそれを証明する方法は私の頭では思い浮かびません。代わりに、仮に仮定が間違っているとしたらどうなるのかを議論することにします。
まずはこの大地の存在から。何故現実が存在しないのに大地は存在するのかという疑問が当然発生します。それはただ単に私たちがそれの存在を、悪い表現を使えば妄想しているに過ぎません。もちろん自分自身の存在、友の存在、その他大勢の人間の存在も思い込みに過ぎません。では魔法はどうなるのでしょうか。私が魔法と現実を切り離して考えていることは皆さんご存知の通りです。知らない方や、今回初めて私の書いた文章を読む方はまあ私がそういう考え方をしていると心に止めて置いてください。現実が実在しない以上魔法も実在しなくなるのでしょうか。魔法と現実を切り離すということはつまり魔法と現実は独立させて考えてよい、ということです。つまり現実がなくても魔法は存在するのです。途上大陸にしか月は輝かないのに他の大陸でも太陽は照るようなものです。ではその魔法は何を根拠に存在するのでしょうか。現実が存在しない以上それとの境界線ルーン・フォビトは定義不能です。したがって魔法は我々を侵食し魔法そのものが大地を支配していることになります。しかし残念ながら現実に存在する概念を持ち込まずにこれ以上議論を進展させることが出来ません。こればかりは存在を信じる必要があります。私たちの価値概念、倫理概念を形作った、最近の歴史では私の友人が新しいものを持ち込んできたあれです。そう、ディーター神話。神話とはなんなのかまで考え出したら日が暮れるどころの騒ぎではなくなります。途上大陸以外の大陸に月が照る、くらいのとんでもない事態になってしまいます。それによれば最初に存在した神にして魔法の神、ライラ=ミーンスは混沌の中にいて、混沌を力として魔法を使っていました。今ここで、魔法は混沌と同値であるとします。現実が存在しないならば私たちの住んでいる大地はそもそも創造されていなく、原初の混沌がそのまま残っているはずだからです。ここでは魔法に関する論文の論法を使って議論します。あれもまた存在するというわけではなく、一つの考え方として用いるだけであることに注意してください。混沌が魔法だとすると、混沌にも『ルーン』があることになります。思い出のルーン以外については通常に考えることが可能ですが私たちが実在しない以上私たちの思い出である思い出のルーンは残念ながら存在しえません。が、そもそもこれはこの場合必要ないのです。これは現実での魔法の姿を決定する要素なのだから。現実が存在しない以上現実での姿なんて存在するわけがないのです。したがって本、色、線、この三つのルーンで魔法、いや、混沌が定義されます。したがって混沌はあらゆる姿をとることが出来、識別可能です。私たちの存在する大地はあらゆる物になることが出来て、無限大であるにもかかわらず有限である。そう考えると創造神話も納得行くはずです。無限大の可能性から有限性を抽出し、大地や生命という概念を生み出せばよいのですから。
混沌とは魔法である。どうやらディーター神話は正しいようです。
byルーン=フィン=エルファース
4.世界に関する論文
私たちは多くの人と知り合います。語り合う友人、見かけたのでなんとなく声をかけてみた人、単に隣をすれ違っていった人、または恋人など。
そしてお互いがお互いの考えをはっきりと持っています。時にその考え同士が衝突し大変なことになります。でもそもそも何故そんなことが起こり得るのでしょうか。人間全ての考えが全く同じなんてことはありえないのに。同じでないのなら、同じ向きを向いていないのならぶつからないはずです。
私が何か風景を見たとします。それと同じ風景を見て私が思い描くことと隣にいる人が思い描くことは全く違うでしょう。でも先ほど言ったような衝突が起こる可能性はあるのです。ではつまり、そうです。全く違うのではないのです。
同じ考えを持つ人間などいません。そんなこと当たり前だし同じ考えを持っている人と語り合っても面白くもなんともありません。ではそう思う根拠は何なのでしょうか。混沌に関する論文で述べたとおりそれの答えを現実や生や歴史に還元するのはおろかです。全く別の何かを捜し求めそれを解答とするより他にありません。私たちは違う地域で育ったり違う境遇で育ったりしています。あなたと私とでは異なります。同じ人間ではないかと思った人もいるでしょうが、人間が人間だからその部分が同じなんだと結論付けては人間が人間に影響を与えることが出来る理由が説明できません。それこそが人間なのだ、と思うかもしれませんが私は違うと思います。それがそう思った人にとっての私という人間の存在です。
では一体何故お互い全く違う方向を向き、全く違う考えを巡らせるのに影響を及ぼしあうことが出来るのでしょうか。私は答えを見出しました。最小のあるものが存在するのです。私たちが共有している最小のあるものが存在しているのです。つまりそれによってお互いの影響が発生します。そして全く違う方向へ進もうとしている私たちが完全にバラバラになってしまわないのはそれを共有しているからです。先ほど同じ考えなど持ちえないといいましたがこれは考えなどという大きくて強いものではなくて小さくて弱いものです。私はこれを『世界』と名付けました。
世界を共有することによって私たちはお互いの存在を認識し、語り合い、影響を及ぼしあい、ぶつかりあい、愛し合うことが出来るのです。私たちは最初からそれを知っています、いや、むしろそれを知ることが最初の体験であるというべきでしょうか。そして世界は非常にちっぽけな弱いものなのでこれを理解するのは多分不可能です。小さすぎて目に見えないからとでも説明しておきましょう。更に理解したから全ての人間を理解したということになる類のものでもありません。あくまでも概念なのですから。私たちは概念ですか。そんなことはあってはならないことです。人がたくさんいることで全ての方向について議論することが出来て、議論が成立するのは世界をお互いに共有しているからなのです。
byルーン=フィン=エルファース
その他、未完の著作として『根源理論』がある。
これを書いたのは作者じゃなくてルーン=フィン=エルファースその人であることに注意して欲しいです