(7)
車は北四川路の北端、横浜橋近くで停まった。
そこからは車を降り、裏通りに入る。リーナは足早にいくつかの角を曲がる。未だ足を少し引き摺っている一人は必死に着いて行く。リーナはそんな一人に構う様子も無い。彼女の背が、着いて来れなくなったらそれで終わり、と語っているようだった。
煉瓦造りの小じんまりとした一軒家まで来ると、リーナは用心深く辺りを覗ってから入って行く。一人も黙って、その後に続く。
「この前まで日本人が住んでいたの。彼らは左翼系作家と交流を持っていて、そのうちの何人かを匿ったりしていたらしいわ。――私には、興味が無いけどね」
リーナはそう言いながら玄関ホールに一人を招じ入れる。
「待ってて、お茶を淹れるわ。修英は今、奥の寝室で眠っているの」
そう言って、リーナがリビングを抜け、キッチンに立つ。一人は仕方なく、リビングのソファに腰を下ろした。庭の先に隣家が見えたが、灯りは点いていない。
不意に、一人は飛び出て来た陳の家を思う。良く面倒を見てくれた陳に太太、それから叔母。 今頃、自分を随分と心配しているに違いない。だが、後悔してももう遅かった。日が沈んでしまっては、戒厳令下の街に出られるわけは無かった。
一人はぼんやりとリビングを見回す。洋間でありながら、何処か日本の、日本人の暮らしの名残を感じる。懐かしかった。
そう感じた自分に、再び問う。自分は一体、中国人なのか、それとも日本人なのか――。
「龍井よ。茶葉には修英がうるさいのでね」
リーナが茶器をテーブルに並べる。
その時、呼び鈴が鳴った。一瞬、びくりと体を強張らせたリーナは、すぐに冷静な表情を取り戻すと玄関に向った。
「未だこんな所に居たとは、驚いたよ!」
よく通る男の声が聞こえた。知っている声だ。一人は振り返る。
「馬羽!」
「やぁ、久しぶりだな。なんて、悠長な挨拶を交わしている時じゃないな」
そう言いながら、馬羽は一人を見て少し笑った。明るい声の割には、その貌は先日会った時よりも幾分か青白く感じられた。
「日本に帰ったとばかり思っていたよ」
リーナと同じ事を言い、馬羽は一人の隣のソファに腰掛けた。
「今夜にでも北四川路で十九路軍と日本の陸戦隊が衝突しようって時に、君とここで会うとは思わなかったね」
馬羽は呆れている。
しゃれたスーツ。ポマードで固めた髪。きな臭い台詞に似合わない馬羽の色男ぶりは、明らかに場違いだった。だが、それが却って気分を和らげる。不思議な男だ。