(5)
だから、避難準備を急ぐ陳夫婦や周叔母たちが一人の前で苛立ちまぎれに日本を批判し始めた時、彼らの気持ちは頭では理解しながらも、やはり耐え切れなくなった。
北四川路に出た所で、軍服に身を包んだ男たちに呼び止められ、誰何された。人の波に逆らってあてもなく歩き続ける少年の姿は、明らかに不審であったろう。
「家は? 身分証は?」
厳しく問われる。一人は口ごもる。
「答えるんだ!」
耳元で怒鳴られ、身をすくめてしまう。
「一人――?」
女の声で呼ばれ、一人は振り返る。
背の高い女がそこに立っていた。地味な姿に、化粧気の無い顔。すぐに誰とは思い出せなかった。
「リーナ……」
彼女はにっこりと落ち着いた微笑を見せた。
「私の連れです。家に病人が居て、どうしても同仁病院に薬を取りに行かねばなりませんでした。女の一人歩きはいかにも物騒なゆえに親類のこの子についてもらったのですが、この辺りには不案内でこの子とはぐれてしまって」
リーナは、軍服に怯えたような目を見せながら、それでもすらすらと作り話を口にする。兵士たちの前で、手にした赤い十字を印した紙袋をこれ見よがしに胸の前に抱き込む事も忘れなかった。
「お前は中国人か?」
リーナの容貌を兵士は胡散臭そうに眺める。
「香港人です。母方の親戚がこちらで」
香港と聞いて、兵士たちは仲間うちで目配せを送ると、軽く首を振った。それから顎をしゃくって早く帰るようにと二人に命じると、背を向け立ち去った。
「一人、来るのよ」
リーナは彼らの気持ちが変わらないうちにと、急いで一人の手を引っ張った。そのまま、通り沿いに待たせておいた車の後部座席に乗り込む。
「小姐、その子は?」
暗くなり始めたと言うのに、帽子を目深に被った男が振り向く。
「知り合いなの。老趙、とにかく出して」
そう言って、リーナは一人を振り返る。
「とっくに上海を発ったと思っていたわ」
少し呆れ顔で言う。
「神戸で足留めされている父を待っているうちに、こんな状況になってしまって」
そう答えたが、もし父が上海に着いていても、今は日本に帰る気になったかどうか。
「そう――」
一人の気持ちを知ってか知らずか、リーナはそれ以上は訊かない。