(4)
――上海の街は、暗く重い雲に覆われていた。
今にも雪が散らついてきそうな、冬の空。
上海税関時計台のウィストミンスターベルの旋律は、上海の変わらぬ繁栄を疑いもせずに時を知らせる。
だが。
一九三二年、一月十八日。上海の工場街区楊樹浦で、一つの事件が起きる。
寒行中の日蓮宗僧侶と信徒ら五人が中国人職工たちに襲撃され、一人が死亡、二人が重傷を負う。翌日十九日深夜には、その報復として日本青年同志会が僧侶らを殴打した職工たちに抗議し、彼らが勤める工場の物置小屋に火を放った。二十日未明、青年同志会のメンバーが引き上げる途中、共同租界工部局の中国人警官と衝突、双方に死傷者を出した。
同日には日本人倶楽部で反抗日運動集会が開かれ、参加者は抗日運動撲滅を決議した後、領事館などにデモを行った。これに対し、中国側の上海抗日救国連合会は臨時代表大会を招集し、抗日会の解散反対、中国陸海軍の上海終結を求める決議を出す。
こう言った上海の動きを睨んで、日本海軍は特別陸戦隊を上海に派遣。一方、上海の防備にあたっていた中国第十九路軍は、日本との戦闘を想定し、北四川路付近に陣地を布き始めていた。日中の武力衝突は時間の問題と見られるようになっていた。
上海の街は、風雲急を告げるように、一気に緊張を高めていた。
「一人、戻って来て!」
背中に呼ぶ声を聞きながら、一人は虹口の、陳のアパートを飛び出した。
「あなたのお母さんを悪く言ったつもりじゃないのよ。日本人がみんな悪い人だなんて言ってないの。一人、行かないで! 行っちゃ駄目!」
陳太太は叫んだが、一人はそれを拒むようにして走り出していた。
中国と日本が大きな衝突を起こすのは、目に見えていた。慌てて家財をまとめている住民の姿が見える。身の回りの物と家族を大八車に乗せて南に向かっている者もいる。ここは危ない、とりあえず蘇州河を渡ってここを脱出しよう。そう言う住民が日ごとにその数を増やしていた。
そんな虹口の街を、一人は徘徊する。何度も南へ向かう人々とぶつかる。
半分は中国人。
もう半分は日本人。
ならば、自分は何処へ行けばいい―?
「一人――。お父さんの前では言われへんけど、お母ちゃんの言う事、一度だけ聞いて。一人はな、中国人でもあり日本人でもあるんや。中国に居る間も、その事だけは忘れんといてな――」
母が日本を発つ前に、そっと言った。
日本人の母が好きだ。
日本の、神戸の風景が好きだ。
そこで暮す、日本人の友達や顔見知りのおじさんやおばさんたちの優しさが好きだ。
その思いは、一人にとっては何よりも大事なものだった。
だが、今、この街ではそれが覆されようとしている。日本人と中国人がお互いに激しく憎み合っている。それは、自分の身が引き裂かれるようなものだった。