(2)
少小離郷老大回(少小家を離れ 老大にして回る)
郷音無改鬢毛摧(鄕音改まること難く 鬢毛衰る)
児童相見不相識(兒童相ひ見て 相ひ識らず)
笑問客従何処来(笑ひて問ふ「客 何れの處より來たる」と)
幼い頃故郷を離れ、年老いた今その故郷に戻って来た。ふるさとの訛りは直ることはなかったけれども、鬢は少なくなった。出会った少年も相知らず、彼は笑って問う。「お客さんは何処から来たの?」。
作者は李白とも親交のあった、浙江出身の賀 知章。玄宗に仕えていたが、晩年は追われるように官を辞した。これは、五十年ぶりに帰郷した時に詠んだ詩である。子供でも知っている、有名な詩だ。
二十歳を少し過ぎた頃だった。里堂にある夜学の教室の前を通りかかった時、この詩を吟じる呂老師の声が聞こえて来た。修英は思わず足を止めた。彼の生徒たちが老師に倣って詠む。
「少小離郷老大回(シャオシャオリーシアン ラオダーホゥイ)」
「少小離郷老大回(シャオシャオリーシアン ラオダーホゥイ)」
修英は、未だ幼いと言って良い歳に故郷を離れた。望むと望まざるに関わらず、それが彼の運命だった。彼はそう信じて、この上海であがいていた。あがいてもがいて歳を取って行く――
修英は我知らず、そこに佇んだ。呂老師が気付いて、彼に声を掛けるまで。
老師はちょっと戸口から顔を出し、言った。
「君も一緒にどうかな」
それが、出会いだった。
「呂先生は、僕にも良くしてくれたよ」
「そうだったな」
「あの人は良い人だった。でも」
月陵は静かに修英を見下ろす。
「僕なら、あなたと同じ事はしない」
その声は冷たかった。
修英が遠い目をした。
彼の耳に、夜学の生徒たちの声が聞こえる。
「郷音無改鬢毛摧(シアンインウーガイビンマオツイ」
上海で必死に生きて来た年月、その結果がこれか――
修英は何も言わず立ち上がる。コートを手に取り、戸口に向った。
「従兄さん」
「お前は昔から賢い子供だったよ。何も心配する事など、無かったようだな」
「どこへ?」
「さあな」
修英はそう答えて、戸口の向こうに消えた。
月陵はこめかみを二本の指できつく押さえた。