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上海での私の仕事についてはあなたに打ち明けるわけには行かないけれど、周公命叔父様とは、その仕事でのお付き合いがあったの。叔父様は神戸に居た頃、私がお世話になっているシーモアと知り合い、親交を結んでいたと言うわ。その友情の為だけに、叔父様は上海での私たちの組織の下で働いてくれていた。何の見返りも要求せずに。そう言う人だった。私的なお付き合いは殆ど無かったけれど、私はあなたの叔父様がとても好きだった――。
でも。あなたは許してくれないかも知れないけど、私は馬羽を憎む事が出来ないわ。憎みたいけれど、憎み切れないの。私には、彼の思いがわからないわけではない。彼は彼で〝約束の地〟を追い求めていたのかも知れないわ。それが決して正しい方法とは言えなくても、彼の生き方が間違っていたとしても、こんな時代に一体誰が何が正しくて何が間違っているかを言えるのかしら……。ごめんなさい。これは自分自身への言い訳かも知れないわね。
上海はどう? 街の様子も、もう少しは落ち着いて来たのかしら。周太太や唐さんたちに良くしてもらってる? ご両親はすぐにホームシックで日本に帰って来るだろうっておっしゃるけれど、あなたは案外上海が気に入っているように見えたから、どうかしら。私も、時々、外灘での散策や南京路でのショッピングが楽しかった事を思い出すのよ。もちろん、『桃源』での煌びやかなステージも――。恋恋不舎、思いは離れ難くってところね。
多分、あなたが神戸に帰って来る頃には私はもうここには居ないでしょう。次に自分がどの街に居るのか、自分でもわからないわ。でも、あなたの事は忘れない。いつまでも、この胸の中で「親愛なる弟」と呼び掛けることにするわ。
何処に居ても、あなたの幸せを祈っています。
リーナ
追伸:上海の暮らしに忙しいのはわかるけれど、ご両親にはまめに手紙を書かなくちゃ駄目よ。それから、立夏さんにもね。放っておいたら、彼女は今度は単身で上海に乗り込みそうなほど気を揉んでいるわよ。』
一人は静かに手紙を机の上に置く。
開け放した窓から、夕暮れ時の風が流れ込んで来る。その風に乗って、城内の喧騒と夕餉の匂いがここまで届いている。もうすぐ叔母が食事の用意が出来たと呼びに来る時刻だろう。
一人は、読み返すのがこれで三度目の手紙を、読みかけの本に挟んだ。
手紙をもらってすぐに返信を書いたが、返って来たのはシーモアからの「彼女は神戸を発ちました」と言う返事だった。一度ならず虹口のディビッドを訪ねたが、生憎留守で、しばらくするとそこには日本人が住むようになっていた。
これから先、何処かの街角で彼女にまた会える日が来るのかどうか一人にはわからない。
寂しい気もするが、それも仕方ないのだろう、とこの頃の一人は思う。
リーナの手紙には、一言も林修英や李月陵について書かれてはいなかった。語らない事で、自分だけの思い出として抱えて行くのかも知れない。
窓先を唐が過ぎるのを見て、一人は声を掛ける。
「ちょっと早いが、蟹が手に入ったよ。早く来い」
唐はそう言って、勝手口の方に消えて行く。唐の後姿に、涼風が過ぎる。
一人は「今すぐ行くよ!」と叫んで立ち上がった。




