(6)
リーナは二人の後姿を見送ると、一人を振り返った。
「走るわ。大丈夫?」
一人は頷く。
リーナは砲声轟く虹口の裏町を、夜陰に乗じて走り抜ける。一人は必死でその背を追う。時折り砲弾が流れて来て、人家の壁を突き崩した。その度にはぐれやしないかとリーナは振り返り、一人の姿を確かめた。一人はここに居ると答える。そうして、また駆ける。何処をどう走っているのか、一人には全くわからなかった。足元もおぼつかない暗闇。リーナの靴音と立ち昇るような激しい気配だけが頼りだった。
「四川路を越えられる?」
さすがのリーナも走り続けて息が上がって来た頃、一人は人家の軒下に引っ張り込まれ、厳しい口調で訊かれた。
北四川路。目と鼻の先で、十九路軍と日本の陸戦隊が戦闘を繰り広げている。その通りを駆け抜けようと言うのだ。リーナの目元が緊張で痙攣した。
「大丈夫だよ……」
一人は答えた。ここまで来れば、この人について行くしかない。
「離れないで」
そう言って、彼女は通りの様子を覗う。かつては、と言うよりつい先日まで、昼間には買い物や散策を楽しむ住民たちで賑わっていた虹口のメインストリートが、今や砲声を轟かすばかりだ。不気味だった。一本の街路は、まるで、死んだ蛇の亡骸のようだ。
リーナは意を決すると一人を庇うようにして身を屈め、その四川路を走る。この子は私が護ってやらねばならない。そうでなければ、周公命に申し訳が立たない――。リーナは胸のうちで呪文のように繰り返す。
だが、通りを殆ど越えようと言う所まで来た時、リーナの体が衝撃にはじけた。
「リーナ!」
一人は打ち崩れそうになる彼女の体を受け止め、彼女を引き摺るようにして通りを渡り切ると、雑居ビルの影に急いで隠れた。
リーナが呻く。かいくぐれなかった流れ弾が、彼女の肩の骨を砕いていた。だが、それでも彼女は立ち上がる。右腕がだらりと頼りなく揺れているのが、夜目にもわかった。その指先からは血が滴っている。一人が何か言い掛けても、それを振り切るように彼女は里堂の闇を進んで行く。一人は言葉を発するのを止めた。
いくつかの角を曲がって迷路を抜けると、リーナはありふれた小さな通りの家の前に立った。木戸を荒っぽく叩く。三度。二度。そして三度。
リーナは家の主人が出て来るまで、壁にもたれて痛みに耐えていた。しばらくすると、ドアの内側から初老の男が顔を出した。見事な髭を蓄えた西洋人だった。リーナの姿を認めると、急いで中に入るように促す。リーナは一人を先にやり、転がり込むように家に入った。
「こんな時に夜遊びとは呆れた――」
男は文句を言いながら、彼らをリビングに案内した。小さなテーブルに今にも消えそうな細い蝋燭が灯っていた。一人は礼を気にする余裕も無いままソファに倒れ込み、ほぅ、と大きな息を吐いた。
「祈りを」
男が革張りの分厚い本を捧げ持って、リーナの前に差し出す。リーナは小さく舌打ちしながらも、その本の前に頭を垂れながら祈りの言葉を呟いた。一人にはわからない言葉だった。それが済むと、男はリーナと一人に一杯ずつの茶を飲ませた。
「明日、戦闘が落ち着いたら一番に蘇州河を越えて医者を探さなくちゃな。ここら辺りの医者はもうとっくの昔に逃げちまっているから」
「明日までこの痛みに耐えなくちゃいけないの? 冗談じゃないわ」
「またじゃじゃ馬が過ぎたんだろう? 自業自得ってものさ。林修英にも関わり過ぎるなと忠告しておいた筈なのに、それを無視してこのザマだからな」
「口が悪いわ、ディビッド」
「何を言う。わしの口の悪いのは今に始まった事じゃない」
リーナは左手を振って、男の言葉を遮った。




