2-3 平凡と旅路
揺れる。今、俺は人生で初めて馬車に乗っていた。
その感想は“馬がかわいい”でも“意外と広い”でもなくて、“お尻が痛い” だった。
一言では表せないほど痛いのだ。
体すべてがお尻になってしまったようだ。それでもこの旅はまだ初日。
朝、いつものように起こされた俺はいつもとは違う服に着替えさせられた。そして、いつもは履かない靴。試しばきをした記憶もないのに、おれの足にぴったりな綺麗な革靴がそこにはあった。
「 …今日から馬車に乗って長い旅路…なんたらかんたら(聞いてなかった) 」
不思議そうに靴を見ていた俺に気づいたのか、マティアスさんは今日は外に出るんだということを長い間説明してくれた。こんなに話が長いマティアスさんに長いと言わせてしまう馬車の旅はどんなに長いんだろうと思っているあいだに、俺はあっさりと6年ぶりの外、生まれてはじめての異世界に足を踏み出すことには… ならなかった。マティアスさんにお姫様抱っこされて運ばれたからだ。子供だし、軽いんだろうけど、それなら靴はいらないだろうと思ったのも事実。
それにびっくりして外もほとんど見れなかったし、そもそも朝早すぎてまだ真っ暗だし、気がつけば馬車の中にいた。
「 決して外にお出になりませんよう 」
彼はそう言っていなくなったが、走っている馬車から飛び降りるほど俺もバカではない。そんなことできるわけない。それとも、この世界では馬車とは飛び降りるものなのか。
でも今なら思う。
俺がすすんで飛び降りることはなくても、このまま俺がお尻に侵食されたらやっちゃうかもしれない、異世界式下車方法。
長い現実逃避をしてたけど、お尻の痛みは変わらなかった。
馬車に揺られて一週間。
お尻に氷を当ててうつ伏せる俺の姿が見られるようになったのはしょうがないと思う。
だって痛いんだもん。
♢♢♢♢♢
緊張したときって口からなんかでそうって思うけど、今の僕はもっとすごい。“なんか”なんて抽象的なものではなく、具体的かつ的確に表すことができるのだから。今不用意に口を開けば、胃から順番に体の中にあるものが全部出てくるだろう。
それを防ぐためにも僕は一生懸命口を閉じていた。
それでも手は震える。手綱を持った手が震えるので、前にいる馬が時折迷惑そうに後ろを振り返ってくる。
ガタガタ揺らしてんじゃないぞ!紛らわしいんだよ!ってことだろう。
わかってるよ。そんなこと言われてもどうしようもない。だって、隣に座っている方を見てくれ。
切れ長の目に、閉じられた唇。思わず見とれてしまうほど美しい横顔。一見わからないが、実はバランスよく鍛え抜かれた体。燃えさかる火のような紅の髪。ほっ……本物のマティアス様が横にいるのだ。緊張しないはずがない。
リクハルド様とフェルナンド様のおっしゃっていた場所に行くと、すでに馬車は待機していた。
直前に必要なものはすべてこちらで用意すると言われたので、自分は身軽な格好で。
一週間前の悪夢を思い出すと寒気がしたが、あの時の僕はあんなこと、人生で一回あるかないかの大事件だと思っていたのだ。
馬車に寄りかかって目をつむるマティアス様の姿を見るまでは。
僕は今まで平凡な人生を歩んできたという自信がある。
生まれは田舎の貴族。貴族という位はあっても、領主だというだけで、あとはまわりのみんなとたいして変わらない。
父は畑を耕して、母は家事をしていた。それに姉がひとり。
子供のころ、朝はみんなで大人の畑仕事を手伝いながら遊び、昼間には木の実を探しながら遊んだ。一週間にいっぺんは川に落ち、泥だらけになって母上に怒られる。初恋は近所の年上のきれいなお姉さんだし、もちろんその恋は成就できずに終わった。
ある程度大きくなると、軍に放りこまれ、毎日クタクタになるまで訓練をさせられた。
そんな僕が騎士団への希望を出したのは、その時に魔法武闘大会を見たからだった。
戦いに目が離せなくなっていたのだ。会場をまるごと沸騰させそうなほど熱をもった炎の中心にいたのは、ウエストヴェルン家の次男、マティアス様だった。
彼はその大会で圧倒的な力を見せつけ、優勝した。見習いを終えて実家付近で勤務するか迷っていた僕は、その足で騎士団への異動届を提出しにいった。さすがに理由はその通りにかけず、2番めの理由を書いたけど。
それからなんとか騎士団に入り、今、隣にその憧れのマティアス様がいる。
夢かもしれない。
そう不安になり、現実であることを確かめる。
両手で自分の頬を思いっきり叩いた。
その瞬間、馬が嘶きながら大きく前足をあげ、止まった。
「 どうした。代わるか? 」
マティアス様が怪訝そうに僕に話しかけてくれた。
「 いいいいえ、だいじょううぶですす 」
震えながら、答える。
ーー手綱持っているのを忘れていただけなので。
頬を叩くついでに後ろへ引いてしまっていたのだ。
ふざけんなよ、と同時に振り向いた二匹の馬を再び走らせ、旅路を進む。
やっぱりこれは夢かもしれない。
もう一度、確かめた方がいいだろうか?




