誰も褒めなかった花瓶の近くで煮たスープ
正直に言えば、もう料理名は見ていない。
店に入る前、黒板は目に入っている。
だが、読まない。
読めば、余計な想像が始まるからだ。
「いらっしゃいませ」
「いつものを」
それで通じるようになった時点で、俺はこの店の常連だった。
席に着くと、新しい客が暖簾をくぐってきた。
スーツ姿。多分、仕事帰りだ。
彼は黒板を見て、固まる。
本日のおすすめ
誰も褒めなかった花瓶の近くで煮たスープ
ああ。今日はそれか。
悪くない日だ。
「……すみません、これ……」
新規客が、恐る恐る店主に声をかける。
「花瓶の近く、というのは……」
「ええ」
店主は穏やかに頷く。
「ずっと置かれていて、誰にも気づかれない花瓶です」
説明が、追い打ちになっている。
「近くで煮た、というのは」
「距離感の問題ですね」
「距離感」
スープの単位ではない。
俺は、出されたスープを静かに飲む。
湯気と一緒に、柔らかな香りが立ち上る。
うまい。
派手ではないが、雑味がない。
自己主張をしない分、長く付き合える味だ。
「……あの、常連さん」
新規客が、意を決したように声をかけてきた。
「これ、頼んで……大丈夫ですか」
俺はスプーンを置いて、正直に答える。
「名前を忘れれば」
「無理です」
「でしょうね」
結局、彼も注文した。
しばらくして運ばれてきたスープは、淡い色合いで、見た目は完全に無害だった。
一口。
新規客の表情が、止まる。
そして、ゆっくりと、変わる。
「……あ」
言葉が、それ以上出てこない。
店主が言う。
「褒められない花瓶って、主張しないでしょう」
「……はい」
「このスープも、そうです」
新規客は、黙って飲み続けた。
飲み終えた頃、彼はぽつりと言った。
「……名前、悪意ありますよね」
店主は、少しだけ考えてから答えた。
「事実に、少しだけ焦点を当てただけです」
焦点の当て方がおかしい。
会計を済ませ、新規客は店を出る前に、もう一度黒板を見た。
明日のおすすめ
『風が通り抜けただけの会議室シチュー』
「……また来ます」
俺は、静かな声で頷いた。




