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名前を読むと食欲が消えるが、味は一流の店  作者: 薄味 太郎


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人のいない更衣室の余韻キッシュ

 その店に、二度目の来店をしてしまった時点で、もう負けている気がした。


 暖簾をくぐる前、俺は深呼吸を一つする。

 覚悟、というよりは予防だ。


 黒板を見る。


本日のおすすめ

人のいない更衣室の余韻キッシュ


 ……余韻。


 なぜ、そこを残した。


 更衣室そのものなら、まだ耐えられたかもしれない。

 だが「人のいない」と「余韻」が合わさることで、想像が勝手に仕事を始めてしまう。


「いらっしゃいませ」


 店主は、前回と同じ穏やかな声で迎えた。

 まるで、普通の料理店のように。


「……これ、頼む人いるんですか」


 黒板を指すと、店主は少し考えてから言った。


「本日は、七割ほどの方が」


「七割」


 多い。


 カウンターには、見覚えのある顔が一人いた。

 前回、静電気のポタージュを黙々と飲んでいた男性だ。


 彼はメニューも見ずに言う。


「余韻で」


 略した。


「かしこまりました」


 成立しているのが怖い。


 俺はメニューを開いたが、他も相変わらずだった。

•整列前のスリッパのテリーヌ

•誰も座らなかった椅子の背もたれスープ

•午後四時の事務室タルト


 なぜ時間を指定する。


「……じゃあ、その……キッシュを」


 声が、少し小さくなった。


 運ばれてきた皿には、こんがり焼き色のついたキッシュ。

 表面は美しく、ナイフを入れると、ふわりと湯気が立つ。


 香りは、卵とバター。

 ごく、普通に、食欲をそそる。


 一口。


 静かだ。


 派手さはない。

 だが、口の中で味が整然と並び、きちんと順番を守って消えていく。


「……落ち着く味ですね」


 思わず、そう言っていた。


「ありがとうございます」


 店主は頷く。


「使ったのは、何の変哲もない素材です」


「じゃあ、なぜこの名前に……」


「人がいなくなった後の、更衣室って」


 店主は、少しだけ言葉を選んだ。


「音が、よく響くでしょう」


「……はい」


「それと同じで、余計な味が残らないようにしています」


 理屈は通っている。

 通ってしまっているのが、なお悪い。


 隣の常連が、キッシュを食べながら言う。


「前は“使用後のロッカー”だったんですよ」


「改善されてますね……」


「ええ。だいぶ」


 ここでも基準がおかしい。


 食べ終える頃には、妙な安心感があった。

 派手ではないが、確実に“また来てもいい味”だ。


「ごちそうさまでした」


 会計を済ませながら、俺は聞いてみた。


「……名前、これ以上、洗練されることは?」


 店主は、少しだけ困ったように笑った。


「これ以上上品にすると、伝わらなくなってしまいますから」


「何がです?」


「食べる前の、あの一瞬の躊躇です」


 店を出る。


 近くのスポーツジムから、人のいない更衣室を想像してしまい、首を振った。


 次は、来ない。


 ……たぶん。


 黒板の端に、小さく書かれた文字が目に入った。


予告

『誰も褒めなかった花瓶の近くで煮たスープ』


 名前だけで、もう味が気になっている。


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