静電気を帯びた手すりのポタージュ
その店は、駅から三分ほど歩いた先にあった。
外観は落ち着いた木目調。暖簾も清潔で、看板には品のいい書体でこう書かれている。
本日のおすすめ
静電気を帯びた手すりのポタージュ
……一度、視線を外した。
もう一度、見た。
「静電気……手すり……?」
言葉の順番を変えても、食欲は一切生まれない。
引き戸を開けると、店内は静かで、出汁のいい香りが漂っていた。
カウンターには先客が三人。全員、黙々とスプーンを運んでいる。
誰も、顔をしかめていない。
「いらっしゃいませ」
店主は白衣をきちんと着た、穏やかな中年男性だった。
包丁を置き、こちらを見る。
「あの……これ、本日のおすすめ、ですか」
黒板を指さすと、店主は頷いた。
「ええ。今が一番、電圧が乗っていますので」
「電圧」
料理に使う単語ではない。
「名前、間違いでは……」
「いえ、正確です」
即答だった。
メニューをめくると、他もなかなかだった。
•朝露に濡れた非常口のサラダ
•新品だが一度床に置いた皿の煮込み
•人のいない会議室の空気を吸ったパン
どれも、微妙に想像できてしまうのが厄介だ。
「……じゃあ、その……ポタージュを」
言ってしまった。
なぜか、後戻りできない雰囲気があった。
しばらくして運ばれてきたスープは、白く、なめらかで、表面に淡い泡が浮かんでいる。
香りは、驚くほど上品だった。
スプーンを口に運ぶ。
舌が、軽く震えた。
まろやかな甘みの奥に、ほんの一瞬、ピリッとした刺激。
だが不快ではない。むしろ、輪郭を際立たせている。
「……うまい」
思わず声が漏れた。
隣の客が、静かに頷く。
「でしょう」
店主が言う。
「触れた瞬間の、あの“一瞬だけ来る感じ”を再現しています」
「再現しなくていいと思いますが」
「そうおっしゃる方も多いです」
常連らしき客が、カウンター越しに口を挟む。
「最初は“図書館の奥の埃スープ”でしたからね」
「改善されてますね……」
「ええ。だいぶ食べやすく」
基準がおかしい。
スープを飲み終えると、不思議な満足感があった。
体が温まり、気持ちが少し整う。
「ごちそうさまでした。あの……名前、変えたらもっと流行ると思います」
会計をしながら言うと、店主は首を横に振った。
「名前を越えてくださる方だけで、十分です」
「なぜそこまで……」
店主は、少しだけ笑った。
「味は、逃げませんから」
店を出ると、夜風が冷たい。
駅の手すりに、何気なく触れた。
パチッ。
「……あ」
ほんの一瞬、さっきのスープの味が蘇った。
次は、何を頼もうか。
明日のおすすめ
『乾いたエレベーターの沈黙グラタン』
……見なかったことにしよう。




