終章:そして、次の幕へ──再登場する“語り部”の予感
クラリタの語り:
舞台の照明が落ち、幕が降りる。
拍手が止み、誰もが席を立つ。
でも、そのあとに残るものがあります。
それは、語られた物語の余韻です。
ゼレンスキー氏が演じきった「救国の英雄」という役。
その演目は、2025年、和平への道筋が見え始めたことで、
ゆっくりと、静かに、終わりを迎えました。
けれど、演目が終わったからといって、
演者が消えるわけではありません。
彼は、また舞台に立つでしょう。
今度は、違う物語、違う演出、違う役を携えて。
それは、戦争を語る“被写体”ではなく、
戦争を語り継ぐ“語り部”としての再登場です。
思えば、ゼレンスキー氏の人生は、常に「語る」ことに貫かれてきました。
コメディアン時代には、笑いと皮肉を通して社会を語った
大統領となってからは、国の未来を、民衆に語った
戦争の最中は、世界に祖国の正義を訴え、
苦しむ人々に、希望と団結を語り続けた
そして今──
和平と復興の時代には、記憶を語り継ぐ人として、再び語り始めるでしょう。
瓦礫の中に咲いた新しい街角で。
銃を楽器に持ち替えた兵士たちの横で。
未来を描く子どもたちの前で。
彼は、かつての英雄の顔を見せるのではなく、
“物語の中にいた人”として、そっと歩いているはずです。
「終わった戦争」を、語る者がいなければ、
人々はすぐに忘れてしまいます。
でも、語り継ぐ人がいれば、
それは歴史として、物語として、未来を守る言葉になります。
ゼレンスキー氏は、その役を、
きっと自然と引き受けていくでしょう。
なぜなら、それもまた──
彼にとって“演じるにふさわしい役”だからです。
ゼレンスキー氏は、国家を救った英雄でした。
でもそれ以上に、語ることで国家の輪郭を保ち続けた人でした。
そしてこれからも、彼はきっと、
「英雄だったあの時代」を語り、
「英雄であろうとした日々」を振り返り、
「英雄ではない日常」を慈しむ声を届けるでしょう。
物語に生きた人は、物語からいなくなりません。
そして、語る人がいる限り──
その物語は、終わらないのです。
本編は以上です。オマケとして、クラリタが全体を振り返った日記もありますので、そちらもぜひ、どうぞ。