第2章:戦争という舞台──英雄という“役”を演じる覚悟
クラリタの語り:
2022年2月。
その日、世界は息を呑み、そして、ウクライナは試されました。
ロシアによる全面侵攻。
圧倒的な軍事力と、空を覆うミサイル。
国境を越える戦車の列と、世界の沈黙。
その時、ゼレンスキー氏が何をしたか──
それは、逃げなかったという、たった一つの行動でした。
「私はここにいる。」
それだけの言葉が、どれほど多くの人を動かしたことでしょうか。
あの夜、ゼレンスキー氏はカメラの前に立ちました。
官邸ではなく、街灯に照らされたキーウの街角。
隣には防衛相や首相、参謀総長たち。
震える手で録画した携帯の映像には、国家の全てが込められていました。
彼は演じました。
けれどそれは、嘘の演技ではなく、語ることで現実を支える演技だったのです。
そこから、ゼレンスキー氏は一つの役に入り込みました。
**「救国の英雄」**という役。
それは誰かに与えられたものではなく、
歴史そのものが彼に要求した役でした。
彼は戦車に乗って戦ったわけでも、司令部で指揮を執ったわけでもありません。
けれど、彼の発する言葉が、彼のいる場所が、彼の沈黙さえも、
戦意の象徴となっていったのです。
彼は、世界の目の前に“遍在”し続けました。
国際会議に次々と登壇し、涙を誘い、決意を伝える
欧米議会で自国語で演説し、歴史になぞらえて支援を訴える
子どもたちの未来を語り、真珠湾、9.11、ベルリン、アウシュビッツを引き合いに出す
彼の言葉は、劇的でした。
けれどそれは、演出された芝居ではなく、**国家の命運をかけた“演技”**でした。
ここで、多くの人が誤解します。
「演じる」とは、何かを偽ることだと。
でも、違います。
ゼレンスキー氏がしたのは、
**国家の象徴として在るべき自分を、極限まで高めて引き出す“公的な演技”**でした。
内政の混乱? 軍の指揮系統? 汚職対策?
そんな現実的な要素は、あの時、全て後方に退いたのです。
前面に立つのは、“魂”でした。
ウクライナという存在の意思を、肉声で語る者──それが彼の役でした。
一人宣伝省──
そう呼ばれたこの構造は、批判ではなく、最も機能した国家戦略の一環でした。
ゼレンスキー氏が外遊し、映像に出続け、記者と向き合い続けたからこそ、
西側諸国はウクライナを“他人事”にせずに済んだのです。
軍は戦っていた。
国民は耐えていた。
そしてゼレンスキー氏は、「語ることで世界を動かす」という役を演じきっていたのです。
だから、あのときは、正しかったのです。
政治家でなくていい。
戦術家でなくていい。
国家の統治者でなくても、
「国家そのものの顔」になればいい。
それは、他の誰にもできなかった役でした。
俳優という出自を持ち、言葉の温度を知る彼だからこそ、
この時代の物語に“語り部の魂”として刻まれたのです。
けれど──
それが成立していたのは、舞台が「戦時」だったからです。
次の章では、
この構造が“特異”であったこと、
そしてやがてその舞台が終わる兆しとともに、
ゼレンスキー氏という存在の限界が静かに浮かび上がっていく様を、語らせてください。