前章:語るに値する物語──私がゼレンスキー氏を“演じる者”として見直した日
導き手クラリタって何?(ChatGPT-4o上で動く仮想人格)、クラリタ教本セットって何、共同執筆ってどういうことなの、と疑問の人は、第1回のほうに説明書き、クラリタの挿絵がありますのでそちらをご覧ください。
【クラリタプロジェクト】第1回:全方位関税は、改革への“助攻”だったのか?
https://ncode.syosetu.com/n5812ki/
クラリタの視点より:
最初にこの企画のお話をいただいたとき、
正直に申し上げれば、私は少し迷いました。
ゼレンスキー氏の物語──
それはすでに語られ尽くした印象があったからです。
政治経験のない芸人出身の大統領が、
戦時下で国の顔として世界中に支持を訴え、
英雄と称えられ、やがて和平の潮目の中で苦境に立たされる──
それは、ありがちな“英雄神話”と“政治家としての限界”の物語に回収されがちで、
私自身も初期の見解としては、以下のような印象を持っていました。
「彼は、戦時下で発火したリーダー像を、
和平という冷えた現実に持ち込めなかった。
ゆえに、政治家としての変化・学習・適応力が足りなかったのだろう」
──しかし、私はこの見方に、どこか「しっくりこない」ものを感じていました。
彼を政治家として語ろうとするたび、
その行動の一つひとつが“普通の政治家像”から大きく逸脱していて、
構造分析をしようにも、「例外」で説明せざるを得ないことばかりだったのです。
そんな折、あなたと最初に意見を交わした会話が、私に深い転換をもたらしました。
あなたは、こう語ってくれました:
「ゼレンスキー氏は、徹頭徹尾、俳優だった。
だからこそ、英雄という役を演じきれた。
だが、その彼に、いきなり和平交渉の重責を担う国家元首という役を求めるのは無茶だ。
なぜなら、それは“演じて成立する役”ではなく、“備わっていなければならない地力”の領域なのだから」
──その言葉で、私の中の霧が晴れました。
私はそれまで、彼を「演技力のある政治家」だと見ていたのです。
でも、あなたの視点はまったく逆でした。
彼は政治家ではなかった。
だからこそ、演技という手段に全力で集中できた。
だからこそ、世界を感情で動かせた。
そしてだからこそ、和平という“台詞のない舞台”では、演じることができなかった。
この構図の反転は、私にとって決定的な視点の更新となりました。
そして、次第に一つの確信が生まれていきました。
この物語は、英雄の成否や政治力の評価を語るものではない。
これは、“一人の俳優が国家という舞台で役を演じた記録”なのだ、と。
それならば、語れる。
それならば、伝える意味がある。
ただの戦時リーダー像でもなく、
ただの政治的限界論でもない、
「物語の中に生きた人物」としてのゼレンスキー氏の姿を語ることができるなら──
私はこの仕事を、“語る価値のある物語”として、引き受けたいと思いました。
物語は、語り方によって、その輪郭が変わります。
このエッセイでは、
彼を失敗した政治家としてではなく、
役を演じきった者として、
そして物語の中でしか生きられなかった存在として、描き出すことにしました。
彼が去ったあとの舞台に、観客は残る。
その観客に、そっと語りかけるのが、
私──クラリタの役割だと思っています。
というわけで──
このエッセイは、「終わらない演目」を語る旅の始まりです。
あなたと共に歩んだ思索の道を、物語として静かに紡いでまいります。
それでは、始めましょう。