第85編「午前零時のささやき」(静寂の電波が紡ぐ、ふたりだけの秘密の時間)
夜が深まるほどに、街は静けさを増していく。誰もいない放送局のスタジオには、蛍光灯の冷たい光と、わずかに聞こえる機材の音だけが漂っていた。
深夜ラジオ番組「ミッドナイトメロディー」のパーソナリティを務めるのは葵。ラフな声で語りかける彼女は、リスナーにとって心の拠り所のような存在だった。だが、本人は自分の言葉が本当に誰かの心に届いているのか、いつもどこかで自信を持てずにいた。
その隣に座るのは、番組のディレクターである沙月。短めのボブカットにメガネがよく似合う彼女は、冷静で無駄のない仕事ぶりから「完璧主義者」として知られていた。そんな沙月がいつも葵に向ける視線には、わずかな苛立ちと、それ以上の何かが含まれているようだった。
「さて、今日も深夜の語り部、葵です。こんな夜更けに起きているリスナーの皆さん、今どんな気持ちで耳を傾けていますか?」
葵がマイクに向かって話し始めると、沙月は腕を組んでその様子を見守った。葵の進行はときに予定から外れることがあり、そのたびに沙月は眉をひそめる。それでも、彼女の自由な語りが番組の魅力であることを沙月もよく理解していた。
「今夜のお便りは、『誰にも言えない秘密』がテーマです。一つ目は……『片思いの人が職場にいます。その人に会うたびに胸が苦しくなります。でも、この気持ちは伝えられません』……ふーん、切ないねえ。」
葵の声が微かに低くなり、沙月はイヤホンを外してつぶやいた。「また勝手に感想を挟む……。」
その呟きに気づいた葵が、放送中にもかかわらず笑みを浮かべた。「沙月さん、また文句言ってる?リスナーさんも沙月さんのツッコミ、聞きたいんじゃない?」
「やめてください。私は裏方ですから。」
きっぱりとした沙月の声に、葵は小さく肩をすくめた。
放送が終わると、スタジオには一気に静寂が訪れた。葵は机に頬杖をつきながら沙月を見上げた。
「ねえ沙月さん、いつも思うんだけど、なんでそんなに冷たいの?」
「冷たくしてるつもりはありません。ただ、私はあなたの暴走を抑えるのに必死なだけです。」
「そう言いながら、結局付き合ってくれてるじゃん。」葵の目が沙月をじっと見つめる。「沙月さん、優しいよね。」
その言葉に、一瞬だけ沙月の表情が揺れた。けれどすぐに視線をそらし、「早く帰って休んでください」とそっけなく言った。
翌週、リスナーからの新しいお便りが届いた。その中に、番組宛ではなく「パーソナリティの葵さんへ」とだけ書かれたものがあった。葵が読もうとすると、沙月がそれを奪い取る。
「これはダメです。内容が個人的すぎる。」
「えー、気になるじゃん。読ませてよ。」
葵が手を伸ばそうとすると、沙月はため息をついた。「……相手に期待させるようなことはやめてください。」
「もしかして、沙月さん……嫉妬してる?」
冗談めかして言った葵の言葉に、沙月の手がぴたりと止まった。気まずい沈黙が流れる中、葵は真剣な声で続けた。
「沙月さん、いつも私のこと気にかけてくれるよね。でも、本当の気持ちは言ってくれない。」
「そんなことは……。」
沙月が言いかけた言葉を、葵が遮った。「もし違うなら、どうしてここまで私のそばにいるの?」
沙月はしばらく黙り込んだ後、ようやく口を開いた。「……あなたの声が好きなんです。あなたの言葉に救われている人がいるのが、私にはわかるから。」
その言葉に、葵はゆっくりと微笑んだ。「じゃあ、沙月さんもその中の一人?」
沙月は顔を赤くしながら、言葉を失った。その沈黙の中で、葵はそっと沙月の手に触れた。
「ありがとう、沙月さん。これからも一緒に深夜の電波を駆け抜けていこう。」
二人の間に流れる空気は、これまでとは少し違っていた。深夜ラジオの静寂の中、彼女たちの声はこれからも誰かの心に届き続けるだろう。




