第824編「刹那を斬る」(私たちの間合いに、迷いは要らない)
道場の木の床が、乾いた音を立てる。朝陽が射し込むなか、二人の間に広がるのは、純然たる「間合い」の空気。
篠原透葉は、目の前の相手――鷹宮紗世の気配を探るように、静かに息を吸った。
「……始める?」
「ええ」
紗世が微かに頷く。竹刀を軽く構えたその姿には、一分の隙もない。
透葉もまた、竹刀を軽く持ちつつ、意識を一点に集中させる。
二人は共に剣道と古流剣術を修めた同士であり、同時に恋人だった。言葉を交わさずとも、剣を交えるだけで互いの思考が伝わる。それは、幾度となく稽古を重ねた者にしか分からない領域――いや、それ以上の深いものだった。
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一拍の静寂。
次の瞬間、透葉が踏み込んだ。
ただし、これは「真の攻め」ではない。剣道の言葉で言えば「攻めの気」を放ち、相手に対する圧を与える試みだ。
紗世は即座に察し、竹刀をわずかにずらしつつ、透葉の「先」を読んだ。
(これは「後の先」か)
透葉は内心で微かに笑う。
**「先の先」**、**「後の先」**、そして**「後の後」**。
武道における三つの間合いの概念。それは、戦いの本質を理解するための重要な鍵だった。
**「先の先」**は、相手が動くより先に先手を取る技術。
**「後の先」**は、相手の攻撃を受けながらも、同時に反撃に転じる技術。
**「後の後」**は、相手の攻撃を完全に受けた後、余裕をもって反撃する技術。
今、紗世は「後の先」を取った。つまり、透葉の攻めに応じつつ、その圧を利用して逆襲を狙う構え。
透葉はすぐに体勢を変え、攻めのリズムをずらした。竹刀の軌道を変え、相手の意識が集中するポイントをずらす。「先の先」を取ることもできたが、ここはあえて「後の後」に回る。
紗世の竹刀が打ち込まれる瞬間、透葉は一歩後ろに下がりながら、竹刀をわずかに傾けて受け流す。
「後の後」。
相手の攻撃を完全に受け流し、最も有利なタイミングで攻める戦法だ。
「っ……」
紗世の一瞬の隙を突き、透葉は竹刀を斜めに振り下ろす。しかし、紗世はすかさず体をひねり、竹刀を押し上げて受けた。
まるで、水面に映る月のような、刹那の交錯。
透葉と紗世は互いに息を整えながら、竹刀を下ろした。
「……さすがね」
紗世が微笑む。
「『後の後』に切り替えるのが速すぎるわ。もう少し動きを読めると思ったけれど……」
「あなたの『後の先』が速かったから、私も余裕を持てなかったのよ」
二人は竹刀を置き、道場の隅に座る。
「ねえ、透葉」
「なに?」
「私たちの関係って、どれなのかしら?」
「関係?」
「『先の先』『後の先』『後の後』の話よ」
透葉は少し考えた。
「……あなたは、『先の先』だと思う」
「え?」
「だって、あなたが私を好きになったのが先でしょう?」
紗世は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「たしかに、私のほうが先にあなたを好きになったわね」
「だから私は『後の先』。あなたの気持ちを受けて、それを自分の中に取り込んで、答えたの」
紗世は竹刀の柄を撫でながら、少し考える。
「でも……もし、私があなたの気持ちに気づかなくて、ずっと待たされていたら?」
「そのときは、『後の後』ね」
透葉は軽く笑う。
「私が、あなたの気持ちを受けてから、時間をかけて、自分なりの答えを出す。それでもいいなら、待っていてくれる?」
「……ええ。でも、今はもう待つ必要はないでしょう?」
「もちろん」
透葉はそっと紗世の手を握る。
二人の間合いに、もう迷いはなかった。




