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百合ショートストーリー集 ~百合好きなのでさまざまなジャンル・シチュエーションの百合を描いていきます~  作者: 霧崎薫


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第806編「月影の潮騒」(深海に潜るたび、私たちはもっと深く溺れていく)


 夜の海は、陸の光を飲み込んでいた。波は静かで、月の光が水面に銀の道を描く。


「行こう」


 星見ほしみの囁きに、潮音しおねは頷いた。ウェットスーツも、フィンも、マスクもない。ただロングスーツの上からウエイトベルトを締め、ロープに沿って深く潜る。それが二人の約束だった。


 一呼吸、二呼吸。深く、肺の隅々まで空気を満たす。そして——沈む。


 耳抜きをしながら、光が揺れる水中を落ちていく。圧力が身体を包み込むほどに、星見の体温が恋しくなる。十メートル、二十メートル、三十メートル。水が青から群青へ、やがて闇へと変わる。


 ロープの底に辿り着いたとき、潮音は星見を見た。彼女の髪がゆっくりと水に溶けるように広がり、まるで海そのものが彼女を抱いているようだった。


 目と目が合う。言葉はいらない。


 潮音はそっと星見の頬を撫でた。冷えた肌が心地よく、互いの指先が触れ合うだけで温もりを確かめられる。


 吐息が漏れるように、泡がゆっくりと昇っていく。無重力の中、彼女の身体を引き寄せる。星見も応じるように、潮音の首に腕を回した。


 唇が触れ合う。


 水の中で交わすキスは、陸よりもずっと深く、静かで、切なく甘い。呼吸を分け合うように唇を重ね、互いの命が今ここにあることを確かめ合う。


 酸素が尽きるぎりぎりのタイミングで、二人はゆっくりと水面へ向かった。ロープを頼りに浮上する間、潮音は星見の手を離さなかった。水圧が緩み、身体が軽くなるにつれ、彼女の鼓動が伝わってくる。


 やがて、水面に顔を出す。


「……ねえ、キス、うまくなった?」


「もう、ばか」


 星見の笑顔に、潮音はくすぐったくなる。


 海とともに生きる。息を止め、深く潜り、限界の先で触れ合う。そんな二人だけの世界。


 また潜ろう。もっと深く、もっと長く。


 ——この海の底で、愛が溺れるまで。

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