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第8編「夜を泳ぐ影たち」(消えてしまう夜の中……でも私たちは確かにそこで生きていた)

 街灯の切れた交差点に、彼女は立っていた。

 真夜中の光が途切れたその場所は、暗闇に満ちているのに、なぜか輝いて見えた。黒髪の少女は、あたかも夜そのものから生まれたかのように、静かに佇んでいた。


 「君、こんな時間に何してるの?」

 気づけば、私は声をかけていた。


 彼女は振り向き、その顔を私に向ける。その目は冷たく、けれどどこか熱を秘めているように見えた。長い睫毛が、街灯も月明かりも届かない深い闇を隠している。


 「……あなたは?」

 その言葉が、夜の空気を揺らした。


---


 私の名前はエマ。夜の街を彷徨うのが癖になっている、どこにでもいるような平凡な女だった。

 でも、その日から私は変わった。いや、彼女が私を変えたと言った方が正しいのかもしれない。


 「アンナ。私はアンナよ。」

 それが、彼女の名前だった。


 私たちが再び会ったのは、あの交差点から二日後のことだった。月が満ちている夜、偶然通りかかった古い倉庫の前に、アンナがいた。暗闇の中で一本の煙草を咥え、火の明かりがかすかにその横顔を照らしている。


 「また会ったわね。」

 アンナが口元を歪めて笑った。


 その声に引き寄せられるように、私は近づいていった。彼女の存在があまりにも特別で、私の生活に新しい色を差し込んできた。


---


 アンナには秘密があった。いや、彼女そのものが秘密のような存在だった。


 彼女は絵を描く人だった。古びた倉庫の中には、アンナが描いた無数の絵が置かれていた。壁に掛けられた大きなキャンバスには、夜の街や空、そしてどこかで見たことのあるような少女たちが描かれていた。


 「これは……私?」

 私がそう尋ねると、アンナは答えなかった。ただ筆を持ち直し、新しい線を描き始めた。


 彼女の絵は、生きているように見えた。夜の風景を描いたはずなのに、その中には確かに呼吸があり、熱があり、記憶のようなものが滲んでいた。


 「ねえ、アンナ。」

 私は彼女の背中に向かって問いかけた。

 「どうして夜ばかり描くの?」


 彼女は筆を止めると、少しの間だけ沈黙した。そして、小さな声で答えた。

 「夜だけが、私を許してくれるから。」


 その言葉の意味を、私は理解できなかった。けれど、その声の震えに触れたとき、私の胸の奥に小さな痛みが広がった。


---


 アンナと夜の街を歩く日々が続いた。私たちは共に倉庫を出て、月の下で彷徨い、星のない空を見上げた。

 彼女は時々、ふとした瞬間に笑う。その笑顔は儚く、手を伸ばせば消えてしまいそうだった。


 「エマ。」

 夜風に揺れる髪越しに、アンナが私を見つめた。

 「私ね、本当はここにいるべきじゃないのかもって思うの。」


 「どういうこと?」

 私の問いに、彼女は答えなかった。ただ、倉庫に戻ると、新しいキャンバスを取り出して筆を走らせた。


 描かれたのは、私たちが今歩いてきた夜の街だった。暗闇の中にぽつりと浮かぶ二人の影。アンナが描く私たちの姿は、どこか痛々しいほど美しかった。


 「エマ、これが私たちよ。」

 アンナが指差した絵には、二人の手が触れ合う瞬間が描かれていた。


---


 夜が更けていくたびに、アンナと私は近づいていった。彼女の中にある何かが、私の中にも響き始めていた。


 「エマ、私ね……。」

 アンナが絵筆を置き、振り返る。その目には、言葉にできない何かが宿っていた。

 「私の絵は、いつか消えてしまうの。」


 「消えるって?」

 アンナは視線を落とし、小さく笑った。

 「夜の絵は、夜が終われば消えるのよ。でも、それでいいの。私たちの時間がここにあったこと、それを知ってるのは私とエマだけでいいから。」


 彼女の言葉が胸に突き刺さる。その痛みを、私はどうすることもできなかった。ただ、彼女の手を握りしめた。


 「夜が終わっても、私はここにいるから。」

 その言葉に、アンナは小さく頷いた。そして、再び筆を取った。


---


 夜の街に描かれる二人の影。それは、永遠に消える運命を背負いながらも、確かに燃え上がるように輝いていた。


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