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第7編「彼女が窓辺に座る理由」(彼女はそれをそっと教えてくれた……)

 あの人はいつも窓辺にいる。まるで、その向こうにしか答えがないとでも言いたげに。


 初めて彼女を見かけたのは、大学の図書館だった。

 午後の光が差し込む大きな窓辺で、一人の女性が小さなノートを広げ、ペンを走らせていた。何を書いているのかは分からない。だが、その表情が、私をどうしようもなく惹きつけた。


 髪は短く切り揃えられ、耳には小さなピアスが揺れている。どこか中性的で、けれども意志を感じさせるその横顔に目を奪われた。ノートに何かを書き込むたびに、眉が少しだけ動く。その仕草が、なぜか胸を締め付けた。


 私はその日、勉強そっちのけで彼女の姿を見つめてしまった。そして、その日から、私の生活は彼女の存在を中心に回り始めた。


---


 彼女の名前は「椎名美咲しいなみさき」といった。大学の講義で偶然にも隣の席に座ったときに、初めて名前を知った。


 「ノート、見せてくれる?」

 小声で頼まれたその瞬間、心臓が跳ねた。私が持っていたノートを渡すと、彼女は「助かる」と一言だけ言って、静かにページをめくり始めた。その何気ない仕草が、やけに洗練されて見えた。


 講義が終わると、彼女はノートを返してきた。

 「ありがとう。君、几帳面だね。」

 その言葉に、私は何と答えたらいいか分からず、ただ「どういたしまして」と小さく呟いた。


 それ以来、美咲とは時々話すようになった。でも、彼女との会話はいつも短い。彼女は多くを語らないし、私も無理に踏み込もうとはしなかった。彼女が何を考えているのか、どこを見ているのか、そのすべてが分からなくてもよかった。ただ、彼女がそこにいるだけで、私には十分だった。


---


 ある日のことだった。

 図書館で勉強していると、ふいに美咲が私の隣に座ってきた。

 「ねえ、君って、どうしていつもここにいるの?」

 その問いに、私は少し驚いた。


 「ここが静かで落ち着くから……かな。」

 私がそう答えると、美咲は微笑んだ。その微笑みが、なぜだか切なく見えた。


 「私も、ここが好き。」

 それだけ言って、美咲はまた自分のノートを開き始めた。


 「美咲さんは、何を書いてるの?」

 思い切って尋ねてみると、彼女は一瞬だけ動きを止めた。そして、小さく笑った後、呟いた。

 「日記みたいなものだよ。誰にも見せられないけどね。」


 それ以上は何も言わなかった。でも、彼女のその言葉が胸に残った。誰にも見せられない日記。その言葉の奥に、彼女が抱えている何かを感じた。


---


 美咲が大学を辞めたのは、それから半年後のことだった。

 何の前触れもなく、突然いなくなった。友人たちに聞いても、誰も理由を知らない。ただ、美咲のことをよく知る者はいなかったようだ。


 私は動揺した。いつも窓辺に座っていた彼女の姿が頭から離れない。何かが胸の奥に引っかかる。彼女が何を考えていたのか、何を抱えていたのか、それを知らないまま、美咲は去ってしまった。


---


 美咲がいなくなってから数年が経ったある日、私は偶然、街の小さなギャラリーで彼女の名前を見つけた。「椎名美咲 個展」。その言葉を見た瞬間、私は吸い込まれるようにギャラリーへと足を運んだ。


 展示されていたのは、彼女が描いた絵だった。それは抽象的でありながら、どこか訴えかけてくるものがあった。線が重なり合い、色彩が滲み、そしてその奥に、彼女自身が見え隠れしているようだった。


 その中の一枚に、見覚えのある風景が描かれていた。大きな窓辺と、その向こうに広がる曇り空。そして、窓辺に座る一人の女性。


 「……これ、私?」

 その瞬間、涙があふれた。


 「君に見てほしかったんだ。」

 後ろから声がした。振り返ると、そこには美咲が立っていた。変わらない短い髪と、揺れるピアス。


 「どうして……?」

 私は声にならない言葉を紡ぎながら、彼女を見つめた。美咲は少しだけ目を伏せ、それから静かに語り始めた。


 「君がいつも窓辺に座る理由を教えてくれた日から、私も窓の向こうを探すようになったんだ。あの頃の私は、何かを見つけたくて、でもそれが何か分からなくて。だから、一度離れる必要があった。」


 「それで……見つかったの?」

 私が尋ねると、美咲は小さく頷いた。


 「見つけたよ。窓の向こうじゃなくて、窓の中に。」


 彼女は少し照れたように笑いながら続けた。

 「君が、いつも窓辺で私を見てくれていたこと。それが答えだったんだって気づいたんだ。」


 美咲のその言葉に、私の胸の奥が熱くなった。そして、そっと彼女の手を握りしめた。その温もりは、あの日感じた初めての触れ合いと同じだった。


---


 窓辺に座る理由を、私はようやく知った。窓の向こうに何があるのかではなく、誰がそこにいるのか。それが、私たちをここに繋ぎとめている理由だった。


 そして、これからは窓の向こうではなく、同じ空間で、彼女と一緒に世界を見つめていこうと思った。


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