第70編「塹壕に咲く灯火」(泥と血にまみれた塹壕で、私たちは未来を誓った)
雨が降り続いている。泥と血の匂いが染み付いた塹壕の中で、アナ・ノヴァークはじっと雨音に耳を傾けていた。戦争が始まって一年が過ぎ、彼女の感覚は次第に鈍りつつあった。初めて戦場に送られたときに覚えた恐怖も、戦友が倒れていくたびに心を締め付けた痛みも、今では遠い霧の中にある。
「アナ、手が止まってるよ。」
隣から静かに声をかけてきたのはエリザ・フリードマンだった。彼女はアナと同じ部隊に配属された看護兵で、塹壕の中では数少ない冷静さを保っている人間の一人だ。
「ごめん……すぐ終わらせる。」
アナは小さく息をつき、銃の手入れを再開する。エリザはその様子を黙って見守りながら、自分の医療キットを整理していた。彼女の手はどんな状況でも乱れることなく、まるでこの地獄のような戦場が日常の一部であるかのようだった。
だが、アナには知っていた。エリザが夜中、誰にも聞こえないようにこっそり泣いていることを。戦場に送られた若い兵士たちの命が次々と消えていく中で、彼女がどれだけ無力感に苛まれているのかを。
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ある夜、激しい砲撃が止み、ようやく静けさが訪れた。アナとエリザは塹壕の片隅で肩を寄せ合い、疲れた体を休めていた。空には月が出ており、そのかすかな光が泥と血で汚れた世界をほんの少しだけ照らしていた。
「こんなに静かな夜があるなんて、信じられないね。」
エリザが呟くように言った。彼女の声は疲れていたが、どこか安堵も含んでいた。
「……明日、また始まるよ。」
アナはそう答えながら、エリザの横顔を見つめた。彼女の髪は泥でくすんでいるが、その目だけはまだ輝きを失っていなかった。
「それでも、今日はこの静けさを忘れたくない。」
エリザはそう言いながら、ポケットから小さな写真を取り出した。それは戦争が始まる前、故郷で撮った家族写真だった。彼女の笑顔は今とはまるで別人のように明るい。
「家に帰れると思う?」
エリザの問いに、アナは答えられなかった。家という言葉があまりに遠く感じられたからだ。代わりに、彼女はそっとエリザの手を握った。その手は小さく震えていたが、エリザはそれを拒まなかった。
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翌日、攻撃命令が下された。部隊全員が塹壕を飛び出し、銃声と爆発音が鳴り響く戦場に突入した。アナはエリザを見失わないように走った。彼女は戦うよりも、エリザを守ることに必死だった。
だが、敵の銃弾が彼女たちの間を裂いた。エリザが倒れるのを目にした瞬間、アナの頭は真っ白になった。彼女は何も考えずにエリザのもとへ駆け寄り、その体を抱き起こした。
「エリザ!大丈夫か?」
エリザは顔をしかめながらも、かすかに笑った。
「平気……ただ、少し休ませて。」
アナは彼女を守るため、壊れかけた壁の陰に隠れた。周囲では銃弾が飛び交い、兵士たちの叫び声が響いている。アナはエリザの傷を見ながら、必死に手を動かした。彼女は兵士だったが、今はエリザの看護兵になりたいと思っていた。
「お願い……死なないで。」
「アナ……」
エリザが弱々しく声を上げた。その瞳がアナを見つめている。
「こんな戦場で……こんなに優しい人に出会うなんて、夢みたいだね。」
「ふざけないで……夢じゃない、現実だよ。」
アナの声は震えていた。涙が頬を伝い、エリザの汚れた顔に落ちる。彼女はその涙を指で拭い、微笑んだ。
「ありがとう……アナ。」
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その後、部隊は撤退を余儀なくされ、アナは必死にエリザを担いで安全な場所に戻った。エリザの命は救われたが、彼女の体には戦争の傷が深く刻まれていた。それでも、彼女たちは生き延びた。
ある日、野戦病院の片隅で、エリザがアナに語った。
「もし、これが終わったら、どこに行きたい?」
「……分からない。ただ、エリザと一緒ならどこでもいい。」
その言葉に、エリザは微笑んだ。その微笑みは、戦場のすべての苦しみを超えるほどの力を持っているように思えた。
「じゃあ、約束ね。どこに行くにしても、二人で一緒に行こう。」
アナはその手を握り返した。二人の手の中にある温もりだけが、戦争という地獄の中で唯一の希望だった。




