第66編「雪解けの春風」(過酷な運命の中でも、心に咲いた一輪の花が未来を照らす)
大正の寒村、厳しい冬が過ぎ、やっと雪解けの兆しが見え始めた頃。山間にある片山村では、農家の娘たちが朝早くから働き詰めだった。特に、次女や三女は家の労働力として厳しい仕事を押し付けられることが多い。片桐茜もその一人だった。
茜は、まだ十五の少女。家の田畑の手伝いや家事をこなしながら、幼い弟妹の世話をする日々を送っている。彼女の手は荒れ、背中はいつも重い荷物で痛んでいた。それでも、茜は泣き言を言うことはなかった。
「泣いたって変わらない。それより、明日の味噌汁のことを考えたほうがマシだ。」
そう自分に言い聞かせながら、茜は毎日を耐え抜いていた。
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茜の隣村には、染物屋の娘、清水美雪がいた。美雪は一見して優雅な雰囲気を漂わせているが、その背後には家業を守るための厳しい責任が重くのしかかっていた。彼女は小柄ながらも気丈で、どんな困難にも動じない強さを持っていた。
ある日、茜が村の市場に味噌を売りに行った帰り、美雪と出会ったのは偶然だった。
「それ、随分と重そうね。」
美雪が微笑みながら声をかけると、茜はその場に立ち止まり、彼女を見上げた。
「まあ、慣れてますから。」
茜はそう答えたが、その声には疲れが滲んでいた。
美雪は少しの間、茜の顔をじっと見つめてから、自分の風呂敷を茜に差し出した。
「これ、少しでも分けて包んで持って行ったら?負担が減るわ。」
その申し出に茜は驚いた。隣村の裕福な娘が、自分のような者に手を貸すなんて想像もしていなかったからだ。
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それ以来、茜と美雪は市場で顔を合わせるたびに少しずつ話すようになった。互いの家の話や日々の苦労を語り合う中で、二人の間には奇妙な親近感が芽生えていった。
「茜さんって、本当に頑張り屋さんよね。」
「美雪さんだって、家業のことをしっかり考えてるじゃないですか。」
そんな会話の中で、美雪がふと呟いた。
「茜さん、もし自由になれるとしたら、どこへ行きたい?」
茜は少し考えた後、小さな声で答えた。
「……川沿いの村がいい。水が綺麗で、空気も良さそうだから。」
美雪はその答えを聞いて微笑み、少しだけ頷いた。
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ある春の日、美雪は家の事情で遠くの町に嫁ぐことになった。茜はその知らせを聞いても、感情を表に出さなかった。ただ、最後に市場で会うときには、何かが違っていた。
「美雪さん、行ってしまうんですね。」
茜がポツリと呟くと、美雪は少しだけ寂しそうに笑った。
「茜さんには、もっと明るい未来があるわ。私はその未来の中にいないけど、それでも、茜さんが幸せならそれでいい。」
美雪の言葉は、まるで最後の別れを惜しむようだった。
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それから数年後、茜は川沿いの村に移り住み、小さな畑を耕しながら一人で暮らしていた。時々、彼女の心に浮かぶのは、あの時の美雪の微笑みだった。
「元気でいてくれるといいな……。」
茜は、穏やかな春風の中でそう呟いた。彼女の手には、染物屋で使っていた古い風呂敷が握られていた。




