第63編「夜明け前、手を引いて」(自由と呼ぶには脆く、愛と呼ぶには熱すぎる――二人だけの夜を越えて)
暗い街を、自転車を押しながら二人で歩いていた。夜の帳が空に広がり、街灯の光が濡れたアスファルトを照らしている。ここは、終電を逃した人間と、夜の匂いを纏った影たちだけが徘徊する場所だ。
牧村葵は、錆びついた自転車のハンドルを握りながら、隣を歩く北条真琴をちらりと見た。短く切った髪が夜風に揺れ、真琴の横顔をぼんやりと浮かび上がらせている。
「本当に、行くの?」
葵は自転車を止め、問いかけた。その声はどこか震えていた。
真琴は足を止めず、ポケットから煙草を取り出して火をつける。オレンジ色の火が、彼女の目元を一瞬だけ照らした。
「行くよ。あの街に居続けたって、何も変わらないから。」
「あの街」――それは二人が育った郊外の住宅街。息が詰まるような静けさと、規則正しい生活を求める人々の目が支配する場所だ。
「でも、どこに行くの?」
葵は自転車に寄りかかりながら、もう一度問いかけた。
真琴は少し笑い、答えた。
「どこでもいい。ただ、ここじゃない場所。」
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二人が出会ったのは、高校の屋上だった。葵が校舎の裏に隠れて吸っていた煙草を先生に見つかり、廊下を引きずられているところを真琴が助けたのだ。
「ほら、逃げて。」
真琴がそう言って手を差し伸べた瞬間、葵はその手を取った。そしてその日から、二人の奇妙な絆が始まった。
真琴はクラスの中でも孤立した存在だったが、その孤独を楽しむような強さがあった。一方の葵は、周囲に合わせるのが得意で、何事もそつなくこなしていた。だが、どこか心の奥で窮屈さを感じていた。
「真琴といると、自由になれた気がする。」
そう告げたとき、真琴はただ曖昧に笑っただけだった。
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夜の街を抜け、二人は線路沿いの道に出た。遮断機の赤い光が、二人の顔を交互に照らす。
「葵、なんでついてくるの?」
真琴が煙草の火を消しながら聞いた。
「さあね。でも、あんたが一人でどっか行くの、気に食わないだけ。」
葵は肩をすくめて答えた。
真琴は少し驚いたような顔をしたが、すぐにそれを隠すように口元を引き締めた。
「ふーん。でも、あんたには帰る家があるだろ。」
葵は答えなかった。ただ、真琴の視線から逃げるように線路の先を見つめた。
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やがて、線路沿いの小さな公園にたどり着いた。砂場には誰もいないブランコが揺れている。葵は自転車を停め、錆びついたブランコに腰を下ろした。
「ねえ、真琴。」
「何?」
「私、あんたとなら、どこにでも行ける気がするんだよね。」
その言葉に、真琴は少しだけ眉をひそめた。
「バカ言わないでよ。私と一緒にいたら、後悔するかもしれないのに。」
「後悔なんてどうでもいいよ。」
葵は笑った。その笑顔は、どこか壊れたような危うさを含んでいた。
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真琴は葵の前に立ち、じっとその顔を見つめた。しばらくの沈黙の後、彼女は静かに言った。
「じゃあ、覚悟してよ。」
そう言って差し出された手を、葵は迷わず掴んだ。
「行こう、夜が明ける前に。」
その言葉とともに、二人はブランコを後にし、自転車を押して歩き出した。どこに向かうのか、誰も知らない。ただ、夜明けの空に向かって進むしかなかった。




