第61編「春風と白衣ときらめく午後」(動物たちの声が紡ぐ絆、白衣の下に秘められたふたりの想い)
緑の丘に囲まれた小さな動物病院。それは、大学付属の臨床実習施設の一つであり、獣医学部の学生たちが実地で学ぶ場でもあった。病院の片隅にある木造の実習室では、今日も学生たちが動物たちに囲まれながら騒がしい時間を過ごしている。
その中に、二人の女性がいた。一人は、まだ見習いの研修生、坂下遥。やや頼りないところはあるものの、動物たちにはなぜか懐かれるという不思議な才能の持ち主だ。そしてもう一人は、同じ研修生でありながら、しっかり者で何事にも動じない性格の花村美咲。成績は常に学年トップで、遥とは正反対の存在だった。
「遥、また犬舎で寝てたの?」
美咲が白衣の袖をまくりながら、遥に話しかける。視線の先には、まだ寝ぼけ眼の遥と、その隣でぴったり寄り添う大きなセントバーナードの姿があった。
「だって、シロが私の膝枕で寝ちゃったから動けなくて……。」
遥は苦笑いを浮かべながら、犬の頭を撫でた。シロは満足げに尻尾を振っている。
「膝枕されるのが好きなのはシロだけじゃないと思うけど?」
美咲は皮肉めいた口調で言うと、机に置かれたカルテを手に取った。
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午前の実習は、迷い猫の診察から始まった。猫の名前はミケ、保護されたときから少し元気がなく、周囲に怯えた様子だった。
「ほら、ミケちゃん、怖くないよ。」
遥が猫の目線に合わせるようにしゃがみ込み、優しい声で話しかける。その声に安心したのか、ミケは小さく喉を鳴らしながら遥の手に顔をこすりつけた。
「本当に不思議よね。どうして動物たちはそんなにあなたを信頼するのかしら。」
美咲は、注射器を準備しながら感心したように言った。
「うーん、たぶん私が動物に近いんじゃない?」
遥は冗談めかして笑ったが、美咲は少しだけ眉をひそめた。その瞳には、言葉にしきれない感情が浮かんでいるようだった。
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午後、病院の裏庭では、二人が一緒にリハビリ中の犬を散歩させていた。芝生の上で走る動物たちを見つめながら、遥がふと口を開いた。
「美咲はどうして獣医になろうと思ったの?」
突然の質問に、美咲は一瞬足を止めた。
「……小さい頃、飼っていた犬が病気になったの。でも、治せなかったのよ。」
美咲の声は静かだった。
「だから、少しでも多くの命を救えるようになりたいと思ったの。」
遥は黙ってその言葉を聞いていたが、やがて柔らかい声で言った。
「美咲ならきっと、どんな動物も救えるよ。」
その言葉に、美咲の表情がふっと和らいだ。彼女は照れ隠しのように笑いながら答えた。
「何よそれ。そんなこと言われたら、頑張らざるを得ないじゃない。」
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その日の夕方、病院の入り口で事件が起きた。傷ついた野良犬が突然飛び込んできたのだ。血の匂いに動揺する動物たちをよそに、遥と美咲は即座に応急処置の準備を始めた。
「遥、その子を押さえて。」
美咲が指示すると、遥は野良犬の首元を優しく抱え込む。その手は震えることなく、傷ついた犬を安心させるように穏やかだった。
「大丈夫、大丈夫だからね。」
遥の声に導かれるように、犬は次第に落ち着きを取り戻した。
「……あんた、ほんとにすごいわね。」
美咲がぽつりと呟いたその言葉には、これまでになく素直な感情が滲んでいた。
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夜、仕事を終えた二人は病院の屋根裏にある小さな談話室でお茶を飲んでいた。窓の外には、星が瞬いている。
「ねえ、美咲。」
遥がカップを置いて話しかける。
「私、動物に懐かれるのは得意だけど、人間にはあんまり信用されないんだよね。」
美咲は少し驚いたように顔を上げた。そして、きっぱりと言った。
「そんなことないわ。少なくとも私は、あんたのこと信じてる。」
遥はその言葉に目を丸くし、次の瞬間には笑顔を浮かべていた。
「ありがとう、美咲。私も、あなたのこと信じてるよ。」
その静かな時間の中で、二人の間に流れる空気が、これまでよりも少しだけ近づいたように感じられた。




