第59編「紅椿は春を夢見る」(大正の風に吹かれて交わる心、その絆は未来を切り拓く)
大正十二年、春の訪れを知らせる風が帝都を吹き抜ける中、浅草の路地裏では、ある少女が書生風の服装に身を包んで自転車を疾走させていた。彼女の名は霧島琴音。活発で負けん気が強く、男顔負けの度胸を持つ少女だ。短く切り揃えられた髪が風に流され、頬を赤らめながら彼女は叫ぶ。
「いけません!千鶴さん、あれを持って逃げるなんて!」
琴音の視線の先には、華やかな振袖に身を包んだ女性――山崎千鶴の姿があった。千鶴は琴音の必死の声を無視し、花模様の帯を翻しながら、手にした箱をしっかりと抱え込む。
「黙っていてちょうだい、琴音ちゃん!これは絶対に、父に渡すわけにはいかないの!」
千鶴の振袖が路地を曲がるたび、金色の刺繍が陽光に反射して輝いた。その華やかさは通行人の視線を引きつけるが、琴音にとってはただの災難だった。
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数分後、二人は柳橋の茶屋の裏手にたどり着いていた。千鶴はようやく足を止め、大切そうに抱えていた木箱をそっと開ける。琴音も息を切らしながら覗き込むと、中には艶やかな紅椿の簪が収められていた。
「これを盗むなんて、どういうつもりですか?」
琴音が声を荒らげると、千鶴は小さく肩をすくめて笑った。
「盗むなんて人聞きが悪いわ。これは、私の母の形見よ。」
その一言に、琴音は言葉を失った。千鶴の父は、実業家として知られる山崎家の当主だ。だが、彼の冷酷な性格は人々の間で噂されており、彼女の家庭が幸福とは言えないことは、琴音も耳にしていた。
「父はこれを、金のために売り払おうとしているの。そんなこと、私には許せない。」
千鶴の言葉には強い決意が込められていた。その瞳の奥に宿る炎のような輝きを見て、琴音の胸には不思議な感情が湧き上がった。
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それから数日後、琴音は千鶴の頼みを受け、簪を安全な場所に隠す手助けをすることになった。千鶴は琴音の家に通うようになり、二人は次第に親密な関係を築いていった。
ある日、琴音がふとした拍子に尋ねた。
「千鶴さん、どうしてそんなに強くなれるんですか?」
千鶴は、ほのかに笑みを浮かべながら答えた。
「強くなんてないわ。ただ、私には失いたくないものがあるだけ。」
その言葉に、琴音はどこか胸の奥が締め付けられるような気持ちを覚えた。それは、ただの憧れではない――もっと別の、深い感情だった。
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そんなある日、簪の存在が千鶴の父に知られてしまう。怒り狂った父は、家名を汚したと千鶴を叱責し、簪を奪い返そうとする。
「どうしてそこまで執着するんだ!」
父の怒号に、千鶴は毅然とした態度で答えた。
「これは母の心そのものです。この家の冷たい空気に、決して奪われてはいけないものなんです!」
だが、父の力に抗うには限界があった。その場に駆けつけた琴音は、千鶴を庇いながら叫ぶ。
「千鶴さんを責めるのは間違っています!」
千鶴の肩越しに見つめる琴音の瞳は、どこか覚悟を決めたように強く輝いていた。
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最終的に、千鶴は家を飛び出すことを決意する。簪を手に持ったまま、琴音と共に新たな未来を歩む道を選んだのだ。
「行くあてなんてないけれど……大丈夫かしら?」
千鶴が呟くと、琴音は笑って答える。
「千鶴さんがいれば、きっと何とかなります。」
二人の背中を、春の風が追いかけた。その風は、遠い未来の希望を秘めているようだった――。




