第52編「夢うつつの庭でキスを」(夢と現実が交わる庭で、少女たちは愛を知る)
ある日、灰色の空が重たくのしかかる午後、レナはまた夢を見た――もしくは、夢ではない場所に迷い込んだのかもしれない。
そこは奇妙な世界だった。空にはさかさまに泳ぐ魚が浮かび、赤と白のバラが色をめぐって口論を繰り広げている。チェスの駒が自分たちで進む道を決め、時計ウサギは「もう時間がない!」と大声で叫びながらぐるぐると回っている。
その世界に足を踏み入れるたび、レナは「ここは不思議の国」と呼ばれることを知った。現実の理屈は通じず、すべてが自由で、そしてすべてが儚い。
しかし、不思議の国で一番奇妙なのは、その世界の美しい住人・ヴァルティナだった。
ヴァルティナは不思議の国に咲く唯一の人間のような存在。赤い髪をリボンで結び、ふんわりとした純白のドレスを着たその姿は、まるで絵本の中の姫のようだった。けれど、彼女の言動はどこか捉えどころがなく、現実にはない不確かさが漂っている。
「今日も来てくれたのね、レナ。」
ヴァルティナは優雅な微笑みを浮かべながら、レナを迎えた。その声は音楽のように心地よく、レナの胸に波紋を広げる。
「ええ。ここに来ると、現実が少しだけ遠くなる気がして…」
「現実なんてつまらないもの。ここで私と一緒にいればいいのに。」
ヴァルティナが近づき、そっとレナの髪を一房指先で遊ぶように触れる。その仕草に、レナは無意識に息を呑んだ。ヴァルティナの瞳は琥珀色に輝き、その中に自分が映っているのを感じた。
「ねえ、レナ。私のこと、どう思う?」
「どうって…?」
「好き?」
唐突な問いに、レナは目を見開いた。
「ヴァルティナ、それは…」
「だって、あなたが私を見つめる目が、とても愛おしそうだから。」
ヴァルティナの言葉は、刃のように鋭く、それでいて花びらのように柔らかかった。
レナは目をそらそうとしたが、ヴァルティナの手がそっと彼女の頬に触れた。その冷たさと温かさが入り混じった感触が、レナの心をざわめかせる。
「答えなくてもいいわ。」
ヴァルティナが微笑む。その微笑みはどこか悲しげで、どこか挑発的だった。
「でも、あなたが好きよ、レナ。あなたのその混乱した表情も、はにかんだ微笑みも、全部。」
ヴァルティナはレナの手を取り、彼女を庭の中央へと導く。そこには、巨大な花時計があり、時を告げるはずの針はいつも動いていない。
「ここでは時間なんて関係ない。私たちはずっと一緒にいられるわ。」
「ヴァルティナ、あなたは本当に…ここにいるの?」
レナの問いに、ヴァルティナはふっと笑う。
「私は、あなたが思う私よ。」
そう言いながら、ヴァルティナはレナの顔を両手で包み込む。その瞳が近づき、呼吸が混ざり合う距離で、ヴァルティナは囁くように言った。
「この場所では、私たちは自由よ。どんな嘘も真実にできる。だから、レナ。」
そして、ヴァルティナの唇がレナの額に触れた。甘くて、切なくて、それでいてどこか消えてしまいそうな感覚だった。
風が吹き抜ける。赤と白のバラが静かに揺れ、遠くでチェスの駒が倒れる音が響いた。
レナは目を閉じ、ただその瞬間を胸に刻む。ヴァルティナの存在が、夢なのか現実なのか。それはもはや重要ではなかった。彼女がここにいる限り、それでいい。




