第5編「焔の中で、君と」(わたしにとって芸術とは、きみの存在そのものだったんだ)
絵の具の匂いが、アトリエに立ち込めている。油絵の具が溶剤と混ざり合い、空気に揮発していくその香りを、私は深く吸い込む。手にした筆をキャンバスに押し付けるたびに、全身を貫くような熱が走る。
その熱の中心には、彼女──小鳥遊凛がいる。
「綾音、その線、少し甘い。」
背後から冷たくも確かな声が響く。振り向かなくてもわかる。彼女の鋭い目が私の筆先を追っていることを。
「甘い?君の目にはそう見えるの?」
あえて挑発的に言い返すと、凛はくすりと笑った。彼女はキャンバス越しに歩み寄り、私の手元を覗き込む。その瞬間、彼女の体温が背中越しに伝わるような錯覚に襲われる。
「線を引くだけじゃなく、その向こうを感じなきゃ。形を超えた存在を。」
彼女の指が私の手に触れ、強引に筆を握らせる。その手の冷たさと力強さに、私は心臓が跳ねる音を聞いた。
「それで、君の思う“向こう側”がこれだって?」
私は意地を張りながらも、凛の指示に従い、筆を動かす。だが、彼女の真意を掴みきれないまま、ただ絵の具がキャンバスを滑る音だけが室内に響いた。
「……違う。」
短く吐き捨てるように凛が呟く。その声には、ほんの少し苛立ちが滲んでいた。
凛は、一歩後ろに下がり、腕を組んで私の作品を睨みつけた。その姿はいつもと変わらない。背筋が真っ直ぐで、目が鋭く、息をのむほど美しい。けれど、その美しさの奥に燃えるような情熱が、私をいつも焦らせる。
「君は、まだ足りない。」
冷たくも真っ直ぐなその言葉に、私の胸の奥が掻き乱される。この三年間、何度も聞かされてきた言葉だ。でも、それはいつだって私を奮い立たせた。そして同時に、彼女への想いをますます深くした。
「……そうやって、君はいつも私に火をつけるんだよね。」
私が呟くと、凛は驚いたように少しだけ目を見開いたが、すぐに小さく笑った。その笑みは、凛にしては珍しい柔らかさを帯びていた。
「火をつける?その焔をどう扱うかは、君次第。」
言葉と同時に、彼女は私の顔を覗き込むように近づいた。距離が近い。瞳の奥に映る私自身を見てしまいそうなほど、近い。
私は思わず視線を逸らし、彼女から逃げるようにキャンバスへ向き直った。
「君に言われなくても、ちゃんと見つけてみせるさ、向こう側を。」
凛はその言葉に何も言わず、音もなく歩いていった。彼女の背中が遠ざかる音を聞きながら、私は必死に筆を握りしめた。けれど、思うように手が動かない。彼女の存在が私を刺激し、突き動かすのに、その情熱の向かう先をどうしても見つけられなかった。
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夜になり、アトリエの隅に腰を下ろしていた私は、ふと気づいた。凛が机に広げたスケッチブックが置きっぱなしになっている。
ページを開くと、そこには彼女が描いた数々の線があった。流れるような曲線もあれば、切り裂くような直線もある。それらは、まるで凛の心そのもののように感じられた。
最後のページを開くと、そこに私の顔があった。柔らかな線と、何かに燃えるような表情。凛が私をどう見ているのかが、否応なく伝わってくる。
「君は、私の“向こう側”を描いてたんだ。」
その瞬間、胸が熱くなった。私にとっての向こう側、それは凛そのものだった。彼女がいるからこそ、私は絵を描くことができる。彼女がいるからこそ、生きている意味を感じられる。
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翌朝、私はいつもより早くアトリエに戻り、キャンバスの前に立った。
凛が来たとき、私はすでに筆を握り、彼女の瞳を正面から見据えていた。
「見ていて、凛。」
凛は少しだけ驚いたようだったが、無言で頷き、私の横に立った。
筆は、止まることなくキャンバスの上を走る。凛の姿を、彼女の存在を、そしてその向こうにある私自身を描く。そのすべてが絵の具に溶け込み、白い空間を埋めていった。
「……やっと、見えた。」
完成した絵を前に、私は静かに呟いた。凛はじっとその作品を見つめている。その目は、冷たさを通り越して、熱を帯びていた。
「綾音、これが……君の答え?」
「そうだよ。」
凛は私を見つめ、何も言わなかった。そして、不意に私の手を取った。彼女の手のひらは温かく、それがさらに私の心を熱くする。
「美しい。」
凛が短く言ったその言葉に、私は救われた気がした。
私たちは、焔のように激しい情熱を共有している。そして、その焔に包まれながらも、決して焼き尽くされることなく、お互いを高め合い続けていくのだろう。
アトリエに満ちる光と影。その中で、二人の手は離れることなく重なり合っていた。