第42編「スライムモールドの恋」(迷路の中で見つけたのは、粘菌とふたりの愛だった)
その部屋は、森の中の一角のようだった。
大学の一室に設けられた研究室には、大小さまざまな容器が並び、そこに棲む奇妙な生命――粘菌――が光を浴びてゆっくりと動いていた。蛍光灯の光の下、黄色や白、時折オレンジ色の粘菌が、培地の上で網の目のようなパターンを描いている。
「スライムモールド、今日も美しいね。」
北嶋マイは、そう言いながら一つのシャーレを手に取り、虫眼鏡をかざした。粘菌の一つである**キイロタマホコリ**が、培地に沿って枝分かれをしながら食べ物(オートミールの小片)に向かって伸びていく様子を眺める。まるで生命の迷路を解いているように、規則正しくも柔軟なその動きに、彼女は心底惚れ込んでいた。
「……また粘菌に話しかけてるの?」
その声に、マイは振り返った。
白衣をまとった西園寺カナメが、呆れたように立っていた。肩までのセミロングを無造作にまとめた彼女は、マイの同僚であり、大学時代からの友人だった。
「話しかけるのも研究の一環だよ。ね、タマちゃん?」
マイがそう言って粘菌を指さすと、カナメは軽くため息をついた。
「タマちゃんって……。本当に変わってるよね、マイ。」
「そう? カナメだって粘菌好きなくせに。」
「まあ、嫌いじゃないけどさ。」
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二人は大学時代から一緒に粘菌の研究をしていた。マイは粘菌の進化的な適応性に興味を持ち、カナメはその複雑な動きや「知性」とも呼ばれる現象に惹かれていた。粘菌が迷路の最短経路を見つける能力や、分かれても再び融合する特性は、二人にとって永遠の謎であり、答えを探し続けるための動機だった。
研究室では、いつも粘菌を巡る議論が絶えなかった。
「ねえ、見て。これ、昨日タマちゃんが描いたパターンだよ。」
マイが見せる写真には、シャーレの中に広がる粘菌が迷路を解いた痕跡が残されていた。それはまるでアートのように美しく、複雑だった。
「本当に不思議だよね……脳も神経もないのに、どうしてこんな動きができるんだろう。」
カナメは写真を見ながら呟いた。
「カナメ、粘菌って、人間よりも賢いんじゃない?」
「何言ってるの、また大げさなこと言って。」
「でもさ、人間は迷路を解くのに頭を使うけど、粘菌は体全体で解くでしょ? 頭脳よりもシンプルで、本質的な賢さって感じがする。」
「……まあ、確かにね。」
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二人の研究は順調だったが、それぞれの視点には微妙なズレがあった。マイは粘菌の「美しさ」や「生命の神秘」に焦点を当てており、カナメはより「科学的な答え」を求めていた。だが、その違いが二人を補い合う存在にしていた。
ある日、カナメが不意に言った。
「ねえ、マイ。」
「なに?」
「もし私たちが粘菌だったら、どうなってると思う?」
マイは少し考えて、笑いながら答えた。
「きっと、私はいつもカナメにくっついてると思う。」
「……え?」
「だって、粘菌って分かれてもまた融合するじゃない? 私たちもそんな感じじゃない?」
その言葉に、カナメは少し頬を染めた。
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ある夜、研究室で二人きりになった時、マイは静かに口を開いた。
「ねえ、カナメ。」
「なに?」
「粘菌ってさ、ひとつになって動いてるときが、一番力を発揮するんだよね。」
「うん、それがどうかした?」
「……私たちも、そんなふうに一緒にいられたらいいなって思う。」
カナメは驚いたようにマイを見た。そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……じゃあ、私たちも粘菌みたいに、一緒に迷路を解こうか。」
その瞬間、二人の間には、言葉にしなくても分かり合えるものがあった。粘菌への愛が、いつの間にか互いへの愛に変わっていたのだと。
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それから数年後、二人は共に研究を続けながら、一緒に暮らし始めた。食卓には相変わらずシャーレが並び、粘菌の話題で盛り上がる日々。どんなに複雑な迷路があっても、二人で向き合えば必ず解けると信じていた。




