第4編「いつもの朝、いつものきみ」(わたしたちは30年、共に歩み続けてきた……)
窓から差し込む朝陽が、カーテン越しに淡いオレンジの光を落としていた。鳥たちが遠くでさえずり、静かな街の中でその音だけがかすかに響いている。陽子は寝室のベッドに座りながら、隣でまだ眠る千佳の顔をじっと見つめていた。
千佳の髪には、かすかに白いものが混じっている。それを指先でそっと撫でながら、陽子はふと思った。三十年という時間が、いつの間にここまで私たちを運んできたのだろう、と。
目を覚ますのが少し遅くなった千佳は、陽子がいることに気づくと、目を細めて笑った。
「おはよう、陽子。」
その声が柔らかく、どこか甘やかな響きを持っているのは、三十年の間ずっと聞き続けてきたからだろう。陽子も思わず微笑み返した。
「おはよう、千佳。よく眠れた?」
「うん、あなたが隣にいるから。」
二人だけの朝の会話は、あまりにも穏やかで何気ないものだった。でもその何気なさこそが、三十年間積み重ねてきた大切な時間の証だった。
寝室を出ると、陽子はキッチンに立ち、いつものように朝食の準備を始めた。トーストが焼ける香ばしい匂いが部屋に漂い、フライパンで目玉焼きを作る音が響く。千佳はリビングのテーブルに座り、新聞を広げながら時々「へえ」とか「そうなんだ」と呟く。それは毎日のように繰り返されている光景だったが、陽子にはその一つ一つが宝石のように感じられた。
「ねえ、今日は何をする?」
朝食を終えた後、千佳が尋ねた。陽子は少し考えるふりをしてから言った。
「庭の紫陽花、そろそろ剪定しようと思ってたの。ついでに、午後は一緒に散歩でもどう?」
「いいね。今日は天気も良さそうだし。」
庭には、二人が新婚のころから手入れをしている植物たちが育っている。紫陽花だけでなく、ローズマリーやミントも青々と茂っていた。千佳は小さな鋏を手に取り、紫陽花の枝を丁寧に剪定しながら陽子に話しかけた。
「覚えてる?この紫陽花、あなたが植えたのよ。」
「もちろん覚えてるわ。あのとき、どんな花が咲くのか心配だったのを思い出す。」
「それが、毎年こんなに綺麗に咲いてくれるんだからすごいわよね。」
二人で笑い合いながら庭の作業を進めていく。風が吹き、紫陽花の花びらが少し揺れる。その光景を見ているだけで、陽子の胸の中にじんわりとした温かさが広がった。
午後の散歩では、近所の公園へと足を運んだ。桜の木が葉を広げ、ベンチには子どもを連れた親たちが座っている。千佳は陽子の腕にそっと手を添え、二人でゆっくりと歩いた。
「こうして散歩するのも久しぶりね。」
「そうね。最近は何かと忙しかったから。」
「でも、こうして一緒にいるだけで幸せだわ。」
陽子は思わず足を止めて、千佳の顔を見た。三十年という月日が彼女の瞳に深い優しさと穏やかさを刻み込んでいる。その瞳に映る自分が、少しだけ誇らしく感じられた。
「千佳、ありがとう。」
「どうしたの、急に?」
「ただ、三十年間も一緒にいてくれて、本当にありがとうって言いたくなったの。」
千佳は驚いたように目を丸くしたが、すぐに小さく笑った。そして、彼女の手が陽子の頬に触れる。
「それは私の方よ。陽子がいたから、私はここまで来られたの。」
二人はそのまましばらく黙って立ち尽くしていた。周囲の喧騒が遠ざかり、ただお互いの存在だけが世界に響いているような感覚に包まれていた。
夕暮れが近づく頃、家に戻った二人は、ソファに並んで座り、古いアルバムを開いた。結婚式の日の写真、旅行先での笑顔、そして若い頃の二人の無邪気な姿。それらを見ているうちに、時があっという間に過ぎていった。
「若かったわね、あの頃。」
千佳が微笑みながら言うと、陽子も頷いた。
「でも、今の方が幸せかもしれない。」
窓の外には、夜の帳が降りていた。リビングの明かりが二人を包み込み、その穏やかな時間が永遠に続くような錯覚を覚えた。
三十年という歳月は決して短くない。でも、その一日一日が積み重なり、今の二人を形作っている。陽子は千佳の手を握り、そっと呟いた。
「これからも、一緒にいようね。」
「もちろんよ。どんな未来が待っていても、ずっと一緒に。」
二人の手が重なり合う。その温もりが、これ以上ないほど胸に沁みる幸せだった。