第36編「灯りの消えた町で」(愛は、心に灯した小さな公園の明かりとともに永遠になる)
市役所の窓際席に座る風間スミレは、今日も書類の山を前に黙々と判子を押していた。
ガタン、と上司の北川課長が古びた引き戸を開けて姿を現した。
「風間君、今月分の町内清掃計画、まだ終わってないのか?」
スミレは一瞬だけ手を止め、視線を上げるが、何も答えない。北川課長は短くため息をつき、すぐに部屋を出ていった。
昭和30年代初頭のこの地方都市では、市役所職員の仕事といえば、町内会の調整や道路舗装の計画、住民からの苦情対応が主な業務だった。だが、窓際のスミレは、そのどれにも心を動かされることはなかった。日々、判子を押す手が自動機械のように動き、ただ時間だけが無意味に過ぎていく。
そんなスミレに、ある日、突然「余命半年」の宣告が下された。進行性の胃癌。医者の冷静な声を聞きながら、スミレは胸に冷たい鉛を流し込まれたような感覚を覚えた。
病院からの帰り道、町の狭い路地を歩きながら、ふとスミレは自分の人生を振り返った。思い返すのは、ただ仕事に明け暮れた日々ばかり。特別な思い出も、成し遂げた何かもない。生きてきた痕跡が、この世界のどこにも残っていないように感じられた。
「私……こんな人生で、本当に良かったのかしら?」
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その夜、久しぶりに一人で居酒屋へ足を運んだスミレは、運命的な出会いをする。隣の席に座っていたのは、若い女性だった。淡いピンクのカーディガンを羽織り、ショートカットの髪が愛らしい。どこか屈託のない笑顔が印象的だった。
「こんばんは、おひとりですか?」
声をかけてきたその女性は、滝本ナツミと名乗った。彼女は新しく市役所に採用されたばかりの新人職員だという。
「私、まだ慣れなくて……窓口対応って、怖いですね。風間さんも市役所の方ですよね?」
スミレは驚いた顔で彼女を見た。
「どうして、それを?」
「さっき上司と話しているのを見かけたんです。……でも、なんだか寂しそうな背中だった。」
その言葉に、スミレの胸は小さく疼いた。
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それから数日後、ナツミは職場でスミレに何度も声をかけるようになった。控えめで周囲と距離を置くスミレに、彼女だけが屈託なく話しかけてきたのだ。
「風間さん、せっかく市役所にいるんだから、一緒に町のために何か面白いことをしませんか?」
最初は面倒に思ったスミレだったが、ナツミの純粋な情熱に少しずつ巻き込まれていった。
ある日、ナツミはスミレを誘い、小さな児童公園を訪れた。古びたブランコや割れた滑り台、ゴミが散らばる砂場。
「ここの公園、もっと綺麗にしたら、子どもたちが喜ぶと思うんです。」
「でも……予算が下りないわ。」
「予算なんて後回しです。まずは、やる気を見せないと!」
ナツミの言葉に動かされたスミレは、初めて自分から役所の会議で提案をした。「公園再整備計画」。町の小さな声を拾い上げ、何かを作り上げること。それがどれほどの価値を持つのか、スミレはこのとき初めて知った気がした。
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それから数か月、スミレとナツミは町の人々とともに公園整備に奔走した。予算の壁、住民の反対意見、日々の忙しさ。すべてが二人を阻むように思えたが、それでも諦めなかった。
その過程で、スミレはナツミへの特別な感情に気づく。自分の冷たく閉ざされていた心を溶かし、初めて「生きること」の意味を教えてくれた人。ナツミに対する想いが、スミレを突き動かしていた。
「風間さん、知ってますか? 私、この町が大好きなんです。」
ナツミがふいに言った言葉が、スミレの胸に深く刻まれた。
「この町が大好きだから、ここをもっと良くしたいんです。一緒に、まだまだやりましょうね。」
スミレは、ただ微笑むしかなかった。
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公園が完成した日、町の子どもたちがブランコや滑り台で遊ぶ姿を見て、スミレは静かに目を閉じた。自分が「生きた証」が、確かにここに刻まれたのだと感じた。
その日、スミレはナツミに伝える決意をした。
「ナツミ……ありがとう。私に、生きる意味を教えてくれて。」
ナツミは戸惑ったように首を傾げたが、スミレの手をそっと握り返した。
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それからしばらくして、スミレは静かに息を引き取った。だが、彼女が残した公園は、今も町の子どもたちの笑顔であふれている。ナツミはその中心に立ち、スミレとの思い出を胸に、新たな町づくりに奔走している。




