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第3編 「月影の庭で」(二人一緒にいるだけで、それだけでよかった……)

 あの庭は、夕闇に溶けるように佇んでいた。

 花々は昼の光を吸い込んで疲れを見せながらも、夜を迎える喜びに微かに震えているようだった。紫陽花が幾重にも重なり、風に揺れる音だけが、私たち二人の間に流れる静寂を破っていた。


 「綺麗ね。」

 茉莉まつりが低く呟いた。その声は、花びらが散る瞬間のように繊細で、耳の奥にそっと届いた。私は頷きもせず、ただ彼女の横顔を見つめていた。


 茉莉は遠くを見つめたまま、何も言わなかった。彼女が何を考えているのか分からなかったけれど、それが心地よかった。まるで彼女の思考がこの庭の一部になり、私たちを包み込んでいるように感じられたからだ。


 「ねえ、真琴まこと。」

 不意に名前を呼ばれて、私は少しだけ驚いた。彼女が私に向き直り、その瞳がこちらを見据えていた。その瞳には、言葉にできない何かが宿っていた。それは、寂しさでもあり、温かさでもあり、そして、何かの終わりのようでもあった。


 「どうして、私たちここにいるんだろうね。」

 彼女の言葉に、私は答えられなかった。それは彼女自身にも分からない問いであることを感じたからだ。


 「だって、こんなに綺麗な場所、ずっと昔からあったのに、今日初めて気づいたのよ。不思議じゃない?」

 彼女の声が震えたのを感じた。何かに怯えているようで、それでいて、その怯えを隠すための笑みが口元に浮かんでいる。私は彼女の手をそっと取った。


 茉莉の手は少し冷たかった。その冷たさに、私はなぜか泣きたくなった。でも、泣かなかった。ただ彼女の手を握りしめ、その冷たさを温めるように指先を絡めた。


 「ここにいるのは、たぶん偶然じゃないよ。」

 自分でも意外なほど静かな声が、夜の庭に溶けていく。茉莉は少しだけ眉を上げた。そして、小さく笑った。その笑顔が月の光に照らされて、揺らめく水面のように儚く見えた。


 「真琴って、たまに不思議なこと言うよね。」

 私は何も答えなかった。ただ、彼女と手を繋いだまま、庭の奥へ歩き出した。紫陽花の葉に触れるたび、ひんやりとした感触が指先に残る。夜の冷たさは肌に心地よく、私たちの歩みを静かに見守っているようだった。


 庭の奥には、小さな石造りのベンチがあった。茉莉はそのベンチに腰掛けると、私の手を引いて隣に座らせた。彼女の顔が近くて、胸が少しだけ高鳴るのを感じた。


 「真琴、覚えてる?初めて会ったときのこと。」

 その問いに、私は少しだけ笑った。

 「もちろん覚えてるよ。忘れるわけない。」


 それは夏の日のことだった。校舎の影で、茉莉は泣いていた。誰にも見つからないように隠れて泣いていたのに、私は偶然その場を通りかかってしまったのだ。

 彼女の涙は、私にとって何か特別なものだった。出会った瞬間から、私たちはお互いを知っていたような気がした。


 「あのとき、声をかけてくれなかったら、私きっと今も……」

 彼女の言葉が途切れる。私は彼女の手を握り直した。

 「もう、そんな話はいいよ。今ここにいる。それだけで十分じゃない?」


 茉莉は目を伏せた。そして、静かに笑った。

 「そうだね。十分だね。」

 月の光が彼女の髪に落ち、銀色の霧のように広がっていた。その美しさに息を呑む。私は、茉莉に触れているのか、この庭の幻想に触れているのか、分からなくなりそうだった。


 夜が更ける。紫陽花はますます深い色をまとい、風は冷たさを増していく。それでも私たちは、庭の静寂に包まれながら、ただそこに座り続けた。


 「真琴。」

 茉莉がふいに私の名前を呼ぶ。その声が震えている。私は彼女を見つめ返す。茉莉の目には、涙が浮かんでいた。


 「私、真琴に会えてよかった。」

 その言葉が胸に突き刺さる。私は何も言えない。ただ彼女の涙を指先で拭うだけだった。


 「茉莉、私も……」

 その先の言葉を言おうとしたとき、彼女がそっと私の肩にもたれかかってきた。


 夜の庭は静かだった。ただ、紫陽花の香りと月の光だけが、私たちを優しく包み込んでいた。


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