第28編「霧の庭で待つ人」(霧の向こうに残されたのは、愛の影と彼女の微笑み)
私がエリザベス・ハリスの家に奉公人として雇われたのは、1935年のことだった。ロンドンの喧騒を離れ、郊外の広大な庭園を持つその館は、灰色の空に溶け込むようにして佇んでいた。重厚な石造りの建物は、窓を閉ざし、外界を拒むような佇まいをしていたが、それでもその中に引き寄せられるような魅力があった。
ハリス夫人――エリザベスは、館の持ち主でありながら、社交界にはほとんど顔を出さない寡婦だった。まだ若く、美しいのに、まるで年老いた幽霊のように館の中を漂う彼女の姿に、私は最初、言いようのない寒気を覚えた。しかしその美貌、冷ややかな声、そして彼女の目に宿る秘密めいた光が、いつしか私の心を掴んで離さなくなった。
最初は、ただ彼女の世話をする日々だった。朝食を運び、庭を掃き清め、彼女の部屋の暖炉に火を入れる。彼女は無口で、長いこと本を読んで過ごしていた。だが、ある日、彼女が私に声をかけた。
「あなたの名前は?」
「アン・マクリーンです、奥様。」
「アン。……いい名前ね。」
それだけの会話だった。けれど、それ以来、彼女は時折私を呼びつけては、ささやかな会話を交わすようになった。話題は庭の花や、天気のことばかりだったが、その時間が私にとっては特別だった。
やがて私は、彼女の部屋で本を読む姿を眺めるのが日課になった。彼女はいつも長椅子に座り、窓から差し込む薄い光の中で静かに本のページをめくっていた。その姿は、現実から切り離された絵画のようだった。
ある夜、私は館の廊下を歩いている途中、彼女の部屋の前で立ち止まった。扉の隙間から漏れる灯りが、どうしても私を引き寄せたのだ。そっと扉を開けると、彼女は暖炉の前に座っていた。
「何をしているの?」
驚くべきことに、彼女は私を咎めることなく、静かに尋ねた。
「ただ……様子を見に来ました。」
私はそう答えるのが精一杯だった。彼女は微笑みもせず、ただ私を手招きした。
その夜、私たちは暖炉の前で長い時間を過ごした。彼女は昔の話をし始めた――亡くなった夫のこと、遠い昔の社交界での生活、そして今では失われた希望について。その声は淡々としていたが、どこか痛みを帯びていた。私は、なぜだか彼女を抱きしめたくなった。
「あなたはどうして、この館にいるの?」
彼女がそう尋ねた時、私は答えられなかった。答えるべき理由が思いつかなかったのだ。ただ、彼女のそばにいたいと思っている自分に気付いただけだった。
ある雨の日、彼女が庭に出ていくのを見た。彼女は黒いコートを羽織り、傘も差さずに濡れた草の上を歩いていた。私は慌てて追いかけた。彼女の足元には、庭の奥に広がる霧がまとわりついていた。
「奥様、こんな場所で何をしているのですか?」
私が声をかけると、彼女は振り返り、その目には涙が浮かんでいた。
「あなたは、ここにいるべきじゃない。」
それは私に対して言ったのではなく、自分自身に向けた言葉のようだった。
私は彼女の手を取り、その手が驚くほど冷たいことに気付いた。
「どこにも行きません。ここにいます。」
その瞬間、彼女は私の顔をじっと見つめ、そっと唇を重ねた。それはあまりにも短く、そしてあまりにも切ない接触だった。
その後、彼女はますます静かになり、部屋に閉じこもることが多くなった。私は何度も扉を叩いたが、彼女は返事をしなかった。そしてある朝、彼女は館から忽然と姿を消した。
彼女の行方を知る者はいなかった。ただ、館の庭には霧が立ち込め、彼女が最後に立っていた場所には一本の白いバラが咲いていた。私はその花を見つめながら、彼女の声がまだ耳に残っていることに気付いた――




