第26編「硝子の花園」(硝子のように脆くても、ふたりでいれば割れない)
光が差し込む美術室の奥、埃をかぶった石膏像の向こうで、二人の少女が向き合っていた。ひとりは、長い黒髪を揺らす有森涼香。もうひとりは、金髪めいた色素の薄い髪を背に流す片桐真琴。それはあまりにも美しい絵画のような光景だったが、その空気は張り詰めていた。
「真琴、どうして……こんなことを?」
涼香の声は震えていた。彼女の手には、小さな白い紙片が握られている。それは真琴が机に残していった短い手紙だった――「さようなら」とだけ記された。
「私たちは、同じ場所にはいられないの。」真琴の声は冷たくも、どこか遠い響きを帯びていた。
「そんなの、わたしには分からない!」涼香は怒るように叫んだ。「どうして一緒にいてはいけないの? どうして、あなたは私を拒むの?」
真琴は涼香から目を逸らした。窓から差し込む陽光が彼女の横顔をなぞり、涼香にはそれがまるでガラス越しの像のように見えた。透明で、壊れそうな存在――それが真琴だった。
真琴は涼香に背を向けると、静かに口を開いた。
「私たちの世界は、違うから。あなたはまっすぐで、眩しくて、わたしには届かない場所にいる人。なのに、わたしがあなたのそばにいれば、あなたまで歪んでしまう。」
「そんなの、あなたが決めることじゃない!」涼香は真琴の背中に向かって叫んだ。「わたしがあなたを選んだの。あなたがどう思っていようと、わたしは――」
そこで言葉を飲み込む。涙が滲んで声にならない。真琴は振り返らないまま、涼香の言葉を聞き続けていた。
「……あなたがいなくなったら、わたしはもう、自分が自分じゃなくなってしまう。それなのに、どうしてそんなにも簡単に、ひとりで背負い込もうとするの?」
涼香の言葉は、真琴の胸に鋭く刺さった。だが、真琴の顔には微かな笑みが浮かんだ。それは哀しみと愛情の入り混じる、不器用な微笑みだった。
「涼香、あなたのことを大切に思うから、離れたいの。あなたが壊れてしまうくらいなら、わたしが遠くで見ているだけでいい。」
その言葉に、涼香は思わず真琴の腕を掴んだ。
「わたしは壊れない! だって、真琴がそばにいる限り、わたしは強くなれる。あなたのいない世界なんて、わたしには意味がないの。」
真琴は驚いたように涼香を見つめた。まっすぐで揺るがないその瞳――それは、真琴が決して持つことのできない強さだった。そして、涼香のその想いが真琴の心を揺らした。
「……それでも、わたしは。」真琴がそう呟いた瞬間、涼香は勢いよく彼女を抱きしめた。その体温は、真琴の中で凍りついていた何かを少しずつ溶かしていくようだった。
「お願い、逃げないで。」涼香の声は震えながらも力強かった。「わたしは、真琴を失いたくない。それがどんなに難しくても、わたしは一緒にいたいの。」
真琴はその言葉に抵抗することができなかった。涼香の腕の中で、彼女は静かに目を閉じた。そして、気づけばその腕の中で泣いていた。
「わたしも、涼香を失いたくない……」真琴は涙を零しながら言った。「それが本当は、ずっと怖かったの。」
美術室に差し込む夕陽が二人を包み込む。その光の中で、二人の距離はやがてゼロになった――透明で壊れそうだった硝子のような真琴は、涼香の腕の中で確かに「ここにいる」ことを感じていた。
それは、二人が同じ世界で息をするための第一歩だった。




